ドクターX 〜外科医・大門未知子〜 (2)



これは(2)です。「ドクターX 〜外科医・大門未知子〜 (1)」から読むのをおすすめします。



○ 大門の振るまい

 そして、大門の振る舞いである。

 一匹狼として自由に振る舞っている様子を描くのはいいが、それが自由を越えて、単なる身勝手に感じられることがある。

 手術に協力してくれた仲間が、そのせいで地方に飛ばされても、一切配慮の言葉もないというのはどういうことか。地方に飛ばされるというのは、ここで働いているような医師たちにとって、人生の非常に大きな損失につながる。大門自身は僻地だろうが戦場だろうがかまわないかもしれないが、城ノ内が言うように、みんなそれぞれ事情がある。家族や子供のことも考えなければいけないし、みんなが大門のように超優秀ではないのだから、今の職を失ったときに、どこでもそれなりの職を得られるわけでもない。そんなことを一切考慮せず、病院を追われた仲間たちに配慮の言葉もかけないような人間が実際にいたとしたら、みんなから嫌われて終わりだろう。
 また、周りの仲間を思いやれないような人間が、患者たちを思いやれるはずはない。

 また、大門は、医師免許がなくてもできることは一切やらないと言っている。確かに、ゴルフなどに付き添う必要はないし、仕事の後の飲み会などに義務的に参加する必要もないだろう。
 だが、握手もしないというのは、人間としてどうなのか。握手をしようとするのは、これから仲良くしていきましょう、といったような、人間関係をよくしようという前向きな行為だが、それを断るのは、それを拒否することである。それを拒否するというのは、即、人間関係を進んで著しく悪化させることを意味する。わざわざそんなことをする意味がわからない。
 そして、一般の企業でも何でもそうだが、組織には、様々な雑務が存在する。それに関わって、いろいろな当番や、担当、係、委員、なども存在する。それらには、その人の専門分野は関係ない。そして、こういうものは、誰でもやることになっている。こうしたとき、「(私は優秀だから、医師免許の必要ないことは)一切、致しません。」などといってやらなければ、いくらその人が実際に優秀で、その人の力をそんな雑務に使うのは能力の浪費であったとしても、どうなのだろうか。実際にそういう人が存在したら、かなり嫌われるだろう。


○ 神

 物語の中で、大門のこうした行為が成り立っているのは、大門の技術力が圧倒的に高いからである。
 しかし、こうした医療ドラマ・医療マンガの異端医師たちには共通することだが、このような圧倒的な手術の腕はありえない。
 ありえないからドラマだと言われるかもしれないが、ものには限度というものがある。ここまで圧倒的で、不可能なものがすべて可能というふうになってしまうと、あまりにも非現実的すぎて、しらけてしまう人もいるだろう。
 このドラマに限らないが、医療ドラマ・医療マンガのこうした医師の設定に、自分はいつも違和感を感じる。命を救うという、非常に重要きわまりないシチュエーションでいつもそれが成功するというなら、その人物が圧倒的な力を持つのは当たり前である。万能な神に相当する行為と言っていい。それは現実からかけ離れた能力だが、神に匹敵する能力を持っていると設定されてしまったら、その人物が圧倒的な力を持ってしまうのは当然のことである。そうなれば、身勝手に振る舞おうと何をしようと、周囲がそれにひれ伏さなければならなくなるのは当たり前である。当然、これは虚構なのだが、そういう架空の医師に憧れる人が出てくる。そういう医師に自分もなりたい、と半ば本気で思う中高生も出てくる。誰でも救える医師に憧れるのは自由だが、それは、神に憧れるのと大して変わらないだろうと自分は思うのである。
 こうしたドラマ・マンガにおいて、医師にあまりに高い技術力を与えてしまうのは、神を登場させることであり、それは、ストーリーをあまりにも単純なものにしてしまうのでは、と思う。本当は、救えない命を目の前にしたときの戸惑いや悔しさ、リスクの高い手術を選ぶかどうかについての葛藤、手術がうまくいかなかったときの落ち込みや、それを乗り越えていく過程などを描くことでドラマに厚みが出るのだと思う。


○ 最後に

 ...と、気になった点をたくさん挙げてきたが、このドラマが、権威や理不尽な主従関係をものともしない姿を描くことで、見る者を爽快な気分にさせてくれる、なかなかよくできたドラマであることは間違いない。
 自分は、さらなる続編があったら、もちろん、また見ようと思う。


(完)

光太
公開 2014年3月21日

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光太の映画批評・ドラマ評・書評・社会評論