天気の子


「天気の子」    新海誠 (監督) 2019年

評価: 53点


 この映画は、基本的には、「君の名は。」にかなり似ていると感じた。

 が、この映画に対する自分の評価は、「君の名は。」よりかなり劣る。


○ 人間が天気を変えられるなんて…

 「君の名は。」の時と同様、映画の中での、新宿など東京の描写がかなりリアルである。

 つまり、この映画は、ほぼ現在の日本が舞台となっているのは確実である。

 さて、物語にとって一番根本的なことなのだが、人間がその意志だけで天気を変えることができるという設定が、自分には、素直には受け入れられなかった。

 全く別の世界の話、どこかの架空の世界の話なら、それはそれでいい。そこには、しゃべる象がいたり、魔法で氷の城を作り上げることができる王女様がいたり、鬼と人間が一緒に暮らしていたり…。そういう世界なら、天気を変えることができる中学生がいても全く気にならない。

 でも、これだけ現実味のある現在の日本のような設定で、人間が天気を変えられるとは…。

 さらに、最後の方では、中学生陽菜が空中に浮かびだした…。

 なんだ、これは…。

 「君の名は。」も、もちろん、現実世界ではない。誰かと誰かが入れ替わるなんて、しかも時間も超えて入れ替わるなんて、実際にはありえない。あんなことは現実には起きない。でも、その設定は受け入れられるし、おもしろい。

 が、人間が天気を変え、空中に浮かぶのはいかがなものか。

 入れ替わる、という設定のおもしろさに比べて、あまりにも陳腐ではないか?

 魔人が出てくるランプを持つ少年やホウキに乗って空を飛び回る少女の話などと大して変わらないレベルの設定ではないかと思う。

 しかも、最後には、少女陽菜はいなくなってしまったはずなのに、別の空間に存在していた…。

え、これは、一体どういう世界観なんだ…。

ドラえもんの4次元ポケットじゃあるまいし…。

何でもありにしてしまうのは、設定として完全に失敗だと思う。

 大切な人が世界から消えてしまうなら一大事だが、どこかの空間に存在しているなら、それはそれでいいじゃない、というふうにも思われる(これは、「崖の上のポニョ」で、嵐が来ると騒いでいたのに、嵐による洪水で水の底に沈んだ人々が楽しげに生活している様子を見ても思ったことである)。

 もっと言わせてもらえば、人柱、というが、人柱が残酷なのは、それが実際には何の効果もないことが大きい。誰かを人柱にしたところで、干ばつの時に雨を降らせることはできないし、冷害を食い止めて、天気をよくすることもできないし、嵐を避けることもできない。なのに、人柱にされた人は、周囲の愚かな人たちによって無理矢理に、理不尽に、無駄に殺されてしまう。それこそが、人柱の悲惨さだと自分は思う。でも、この話では、天気を実際に変えられるなんて…。しかも、誰からも強制されているわけでもなく、そうするかどうかも気ままに選んでいる。

 人柱に内在する残酷さが、なくなっちゃっている…。


○ 数々のおかしな点、不明な点…

 それから、なぜ、東京にずっと雨が降っているのかも全くよくわからなかった。その世界のどのくらいの範囲で雨が降っているのかもわからなかった。

農作物とか、食糧問題とかどうなってるんだろう、とも思った。このことは重大な事態のはずだが、それがどうなっているのかも描かれておらず、よくわからなかった。

 もし、そういう問題があるのなら、なぜ、晴れを生み出す力をそういうことに使わないのだろう…、など、いろいろ疑問もわいてくる。

 それに、中学生の陽菜と小学生の弟が2人だけで住んでいるが、それもそもそも不自然だ。本当に生活できるんだろうか?もっとよくわからないのは、児童相談所に行くと離れ離れになってしまう、というようなことを言っていた。本当に離れ離れにされてしまうんだろうか?児童相談所は、子どものことを全く考えずに、そんなこと、するのだろうか?

 警察署から、少年帆高が逃げ出すシーンもちょっと…。いくら何でも、警察がここまで間抜けなはずがない…。犯人の脱走は警察にとっては重大な不祥事であり、そうならないように、かなり慎重にその防止に努めているはずである。警察がここまで間抜けなら、大半の犯人は逃げているだろう。どうしても逃げる設定にしたいなら、実際に面会室のアクリル板を外して逃げた犯人のように、もうちょっと盲点を突いて逃げるような工夫がほしかった。

 そもそも、警察が穂高たちを追いかけるシーンの警察も無能すぎるだろう。子供の鬼ごっこじゃないんだから。

 少年帆高も、お金も持たずに、東京に来て、どうするつもりだったんだろう?無計画にもほどがある。お金がなくてもそうせざるを得ない理由があったのならそれを説明してほしかった。映画を見ている限りだと、単に地元が嫌だから、お金もないのに東京に出てきたようにしか思えず、それでは、帆高があまりに場当たり的で思考力に欠けるようにしか思えなかった。

 終盤、帆高を乗せた夏美のバイクが、水の中に突っ込んでいく。バイクはもちろん、水の中に入ったら動けなくなるし、壊れるだろう。なのに、特に理由もなく、ただただ水の中に突っ込んでいった。意味不明である。まず、水のない道を迂回するのを考えるのが当然である。回り道できなかったなら、ちゃんとそう説明してほしい(これは何も難しいことではなく説明は物語の進行を妨げることなく一瞬でできる。)。だが、回り道が不可能だったとしても、バイクはそこで止まればいいだけで、わざわざ水の中に突っ込んでいく必要もない。

 その後、帆高は、線路を走っていったが、これもいきなり感があった。線路だけが水につかっていない、などであれば、そう説明してほしかった。電車が来たら死ぬかもしれない。電車が止まっていたとしても、電気系統などからの感電の危険もあるだろう。少年が、理由も説明されずに線路を走り始めた時は、自分は唖然としてしまった。ドラマチックにしようとしたのだろうが、使い古された手法のような印象を持って白けてしまった。

須賀圭介は、終盤、帆高に警察に戻るように言っていたのに、その直後、いきなり、帆高を警察から逃がそうとする。圭介がその瞬間何かを感じ取ったにしても、いくらなんでもいきなりの豹変で、ついていけない。

そして、最後、二人の間には、あんなに劇的なことがあったのに、スマホがある現代なのに、連絡もせずにずっと会わずにいて、以前会った道で再会…。再会も古典的な過剰なタイミングのよさで、見ていて恥ずかしくなった。世界の天候を犠牲にしてまで選んだ陽菜と、なぜずっと会わずにいられるのだろうか。会えなかった理由があるのなら説明してほしかったし、もうちょっと納得のいく再会にできなかったものか…。

(物語のいろいろと不自然なところにも、理屈をこねくり回して好意的に解釈しようとする人たちがいるのは知っているが、自分は、素直に、おかしいと思ったところはおかしいとはっきり指摘する性格だし、それが自分の文章の持ち味である。)

 穂高が東京の天気よりも陽菜を選ぶ判断についても、いろいろ議論の余地はあると思うが、自分には、この映画はそれ以前の問題であった…。


○ 最後に

この映画の絵はきれいだし、東京の都市をほんとにうまく描いていると思う。音楽もいい。

また、中高生の恋愛は、定番とはいえども、「君の名は。」にも近い感じのこの恋愛テイストに感動する人は多いだろう。

なのに、この設定や数々の不自然さは残念としか自分には言いようがなかった。

 次作は、もうちょっと納得いく設定をお願いしたいし、細部にもうちょっと気を遣ってストーリーを組み立ててもらいたい。

(完)

光太
公開 2021年2月24日

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