「2001年宇宙の旅」 スタンリー・キューブリック (監督) 1968年
評価: 68点
この映画は、1968年の作品であるが、SF界の金字塔として、非常に高い評価を受けてきた。また、この映画は非常に難解な作品であるとされており、そうした難解で深遠なメッセージを含んでいるとされる点も高評価に貢献しているようである。
この映画は、確かに、高い評価を受けるに値する点も多く、そういう評価を受けてきたことは納得できる。だが、一方で、映画としてはもっと改善すべき点があるのではないか、過大評価されている面があるのではないかと思う点も多くある。以下、両面を論じてみたい。
この映画の評価できる点から述べることにする。
まず、冒頭の極めてリアルな類人猿が登場する映像は圧巻である。映画のこのシーンは、今見ても、非常に精巧にできており、たいへんな迫力がある。映画技術がまだまだ発展の途上にあったこの時代に、これだけのものを作ったことは、大きな評価に値する。また、宇宙空間や宇宙船内の映像も、当時としては非常に画期的であったと思う。ただし、映像技術が進んだ現在、少なくとも、淡々として何も起こらない宇宙船内の映像をかなりの長時間流すという映画の構成は、映像の歴史を学ぶ映画製作者などにとってはともかくとして、一般的な映画鑑賞者にとっては退屈に感じるであろう。
さて、この映画の最も優れた箇所は、コンピュータHAL9000との対決にあるといえよう。人間に対し、攻撃型ロボットが襲い掛かる映画は数多いが、この映画の対決はそういった単純なものとは質が違う。あらかじめ人間を攻撃するようインプットされたコンピュータ(及び、その外形としてのロボット)が人間を攻撃し、それがどんなに激しく、残虐なものであろうと、そこから感じる恐怖は大したことはない。
この映画におけるコンピュータとの対決は、静かである。コンピュータが自らの意思を持ち始め、それが人間の命を意図的に奪っていく。非常に静かな、淡々とした進行の中で、人々を震撼とさせるこの恐怖感を表現したことの価値は極めて高い。この対決を見ると、意思の起源、意思とは何かといった問題をも深く考えずにはいられない。これは、哲学的にも非常に大きな問題である。その哲学的にも非常に重要な問題を、きわめて分かりやすい形で一般の人々に深く考える機会を与えたという点でも、この映画は大きな価値があると言えよう。
次に、受け入れ難いと感じた点を論じることにする。
この映画には、意味不明な点が多くある。また、モノリスという、意味ありげだがその正体がわからない石版が登場する。そして、映画の終盤では、支離滅裂に見える映像が続く。
こうした点は、小説版を精読し、また監督であるスタンリー・キューブリックや、アーサー・C・クラークの考えについて深い知識のある人には、非常に深遠なメッセージが受け取れるものになっているのかもしれない。
しかし、自分を含め、そうでない一般の映画鑑賞者は、映画を見ただけでは、あのモノリスの意味も、最後の支離滅裂に見える映像も、全く意味をなさない。
少なくともそうした予備知識のない鑑賞者には、この映画のそういった部分は、難解なのではなく無意味であると言える。なぜなら、どんなに鋭い洞察力・理解力を持った鑑賞者でも、少なくとも予備知識なしには一定のメッセージを得ることは不可能と思われるからである。もちろん、適当な解釈は加えようと思えば加えられるが、それは、無意味な映像の寄せ集めに対してもできることであって、そこに積極的な価値を見出すことは難しい。
例えば真っ黒の画面を2時間表示して、これは「無」であり、存在ということの深い意味を表現していると言われたとする。確かに、そうしたものからも、受け取る人によって様々な解釈が成り立つだろうし、それが「無」や「存在」の、何らかの本質的な意味を表している面はおそらくあるのだろう。しかし、テーマがいくら大きくてもそんなものを映画だと言うのはばかばかしい。
こうした映像に接したとき、我々は、安易に、難解な映画であるとか、それが高尚であるかのように評価すべきではないと思う。こうした手法は、むしろ、表現者に、ダイレクトに表現する自信がなく、思わせぶりに見せてやれば、観客はだまされて、高尚だと考えるだろう、という非常にあざといやり方だと思う。
このような部分について、鑑賞者は、素直に、意味がわからない、改善してほしい、と訴えるほうがよいと自分は考える。支離滅裂な部分を、意味もわからないのに、高尚であると感じたかのように評価するのは、誠実さに欠ける。そうした不誠実な感想を述べる人たちは、仮に誰かが、本当に何の意味もない映像の寄せ集めの映画をわざと作って、そういう人々がどういう感想を述べるかテストしたとき、その映像の寄せ集めが、単なる映像の寄せ集めであることを見抜けないに違いない。
この映画は、意識というものの起源について、そして、将来コンピュータが人間を支配し始める可能性などに関して非常に高い哲学性を確かに有している。そこは大いに評価すべきである。だが、一方で、表現として大きく失敗している面があることも、紛れもない事実といえよう。
(完)
光太
公開 2011年4月20日