「ライフ・イズ・ビューティフル」 ロベルト・ベニーニ (監督) 1997年
評価: 28点
自分は、実は、感動する映画がかなり好きである。映画を見て泣くことも少なくない。
ある時、周囲のかなり多くの人たちに、感動する、泣ける映画にはどういうものがあるかを尋ねたことがある。その時、「ライフ・イズ・ビューティフル」と何人かの人が答えた。感動する映画として、この映画を挙げた人の数が一番多かったと思う。
その後、インターネットでも検索してみたが、一般的にも、この映画は、感動する映画として挙げられることが多いようであった。
そのため、自分は、かなり期待してこの映画を見た。
が、自分の期待は完全に裏切られた。
こんな映画に、なぜ人々は感動するのだろうかと、理解できなかった。
いや、確かに、このお父さんの子どもに対する行為に、敬意を表すべき点があるのはその通りである。だが、あまりに納得いかない点があって、ちょっと嫌な気持ちになったので、感動するような気持ちはもはやなくなってしまったのである。
自分がこの映画を見て非常に不満を持った点は、3つある。
一番重大な点から述べたい。
この映画は、悲惨な歴史である、ユダヤ人強制収容所を舞台にしている。
ナチスドイツが行ったユダヤ人差別、そして、その大量虐殺というのは、歴史上稀に見る、重大な国家的な犯罪行為である。この残虐さ、悲惨さは、アンネの日記などにも描かれているが、想像を絶するものがある。ユダヤ人だからという理由で収容され、ガス室に送られ、大量に殺されるなどという壮絶な歴史が実際にあったのである。狭い強制収容所に詰め込まれ、過酷な生活環境の中で、今日は殺されずに生きていられるだろうか、明日は私の番だろうか、などと毎日怯える生活を想像できるだろうか。
もちろん、こうした歴史は二度と繰り返さないように、人類は最大の努力をしていく必要がある。ドイツでも、一部の過激な勢力は、この歴史を賛美していたりするが、そういう勢力が台頭してくるのを、人類は協力して抑えていかなくてはならないと思う。
ところが、この映画を見ていると、その残虐さ、悲惨さはほとんど伝わってこない。悲惨な歴史が牧歌的に描かれすぎている。そして、厳しい監視下に置かれた過酷なはずの強制収容所で、子どもがかくれんぼのつもりで隠れているなどという設定は、あまりにものんきなのである。
ユダヤ人の差別や虐殺に関する映画は、全てそれを厳しく批判する内容をテーマとしなければならないと言うつもりはない。だが、これでは、これを見た人たちが、ユダヤ人の強制収容所とは、この程度の、ほのぼのしたものだったという間違った認識を持ちかねない。ユダヤ人の差別・収容は正しかったと主張するような人々も一部にいる中、そういう間違った認識を広める可能性があるような映画を作るのはいかがなものかと思う。
この作品は完全に、お父さんの子に対する愛の物語である。br />
だが、そうしたテーマを扱うのならば、ユダヤ人の強制収容所を映画の設定にする必然性は全くなかったと思う。
ユダヤ人強制収容所について、誤った認識を広めるリスクがあるくらいなら、全然別の設定にしてほしかったと思う。全然別の設定でも、同様のテーマを描くのには全く問題はなかったと思う。
また、二番目は、上でもちょっと書いたが、強制収容所にいる子どもがナチスの兵隊に見つからないようにするために、父親が子どもに「かくれんぼだから隠れているんだよ」と言う信じられない設定である。
まず、かくれんぼだから隠れるというのと、命に関わるから隠れるというのでは、同じ隠れるにしても、真剣さが異なる。もし見つかったら、殺されてしまうから隠れていなさい、と言えばすべてを抜きにして一生懸命隠れるかもしれないが、かくれんぼのために隠れるだけなら、子どもは飽きてきたら適当に出てきてしまうかもしれない。それに、子どもは飽きっぽいから、一カ所にとどまっていることは難しく、どうしてもちょこちょこ動きまわる可能性が高く、現実的にまともに隠れ仰せるとはとても思えない。また、もし仮に、子どもが最大限効果的に隠れたところで、厳しい監視下にあるナチスの施設で見つからないはずがないだろう。映画の中の描き方を見ていても、あれで見つからないとは到底考えられなかった。もし、子どもが遊びで隠れてさえ見つからないなら、大人はもっとうまく隠れることができるはずだから、収容されている大人たちも全員隠れてしまえばよい。だが、そんなばかげた話はないだろう。
かくれんぼだ、などとのどかなことを子どもに言っても、実際なら子どもはすぐに見つかり、捕まってしまうだろう。そして、殺されてしまうかもしれない。現実社会なら、こんなのんきなことを子どもに言い、まともな対処を考えなかった父親の責任が問われる。
ストーリーの根幹をなす設定がここまで不自然だと、映画に集中できない。
三つ目は、お父さんの子供に対する基本的な態度である。お父さんは子供に、どうしてこういう状況になっているのかを全く理解させようとしていない。これは、ゲームだとウソをつき続ける。確かにこの子供は幼すぎ、現実に何が起こっているのかを理解させようとするのは無理があるとは思う。そして、ゲームだと子どもに言うのは、もちろんお父さんの思いやりであろう。だが、自分は、少したりとも子供に真実を告げる努力をしてほしかったと思う。
お父さんが、子どもを子ども扱いせず、悪い国の指導者が自分たちをひどいやり方で殺そうとしていること、だから、しっかり逃げないと殺されてしまうかもしれないこと、いつか大きくなったら、そういう国の悪い指導者と戦わなければならないかもしれないこと、一部の人を差別するのはいけないこと、などを、子どもがわからないにしても、少しでも伝える努力をしてほしかったと思う。子どもでも、ある程度の感覚の鋭さは持っているので、全体を理解するのはもちろん無理にしても、そうした中から感じ取る部分もあると思う。それが子どもの生き方に大きく影響する可能性もあると思う。
自分が好きな映画に、「蝶の舌」という映画がある。その映画は、スペインの内戦をめぐるスペイン社会の人々を描いた物語である。そこに出てくる「先生」は、とても尊敬できる人間である。この先生は、決して子どもを子ども扱いしたりしない。子どもであっても、一人の人間として扱い、難しい内容であっても子どもに真実を伝えようという態度で常に子供に接している。この「先生」は、同じ状況であったとしたら、できる範囲で、子どもに、今の状況を理解させようとしたことだろう。それは、このお父さんの取った行動とは全く異なるものである。「蝶の舌」と本作品を見比べて考えてみてほしい。
この映画は、親子愛の部分に完全に徹して見れば、よい映画と言えるかもしれない。
だが、設定が不自然すぎたり、ひどく残酷な歴史を、結果的に、のどかな歴史であったかのように誤解させるような映画になってしまっているため、不愉快な気分が残った。
(完)
光太
公開 2011年8月13日