HOME 愛しの座敷わらし


「HOME 愛しの座敷わらし」    和泉聖治 (監督) 2012年

評価: 84点


○ 成長物語

 この映画は、ほのぼのとした非常にいい映画である。

 端的に言えば、これは、子どもの成長物語と言えるだろう(この映画のテーマは、ばらばらだった家族が結束していく物語、みたいな言い方もされる。しかし、前半で家族が崩壊しかかっているわけでもないし、それよりは、むしろ子どもの成長物語が本質だろう。)。

 だから、最後、家族は、とても気に入ったこの場所に定住するのではなく、東京に帰ることになる。
 みんなが、そんなに気に入ったなら、住み続ければいいのに...、と思うのだが、そうはならない。
 俗っぽい言い方をすれば、家族が移り住んだこの場所は、現実ではなく、成長のために短期間用意された異界の場所であり、あまりに理想化されたこの場所は、人間が長く住むような場所ではないということになるだろう。
 こういう説明は、よく映画評論家や文学研究者などがきどって書く、くだらない解釈のようで好きではないが、まあ、そういう趣旨なのだろう。
 このパターンは、「ドラえもん」の映画版の定型でもある。そして、「千と千尋の神隠し」も似たコンセプトに基づいているといっていいだろう。

 つまり、この映画の趣旨は、田舎はいいねえ、みんな、田舎に住もうよ、ということではなく、田舎は単なる舞台装置ということである。
 田舎はいいところだから田舎に住もうよ、ということなら、最後に東京に戻ったりはしないだろう。


○ 自然の風景

 とはいっても、この映画で描かれている田舎は魅力的である。
 広がる田園風景、美しい山並み、静かで大きな家、味のある囲炉裏、夏祭り...。
 映画では描かれていないが、山にはカブトムシなどがいるだろうし、川では釣りもできるだろう。昼は小鳥がさえずり、夏の夜は虫の声でいっぱいになるだろう。
 こうした自然や田舎の風景というのは、大切にしていきたいものだと思う。
 日本の伝統を守れ、などと声高に言う人々がいる。そういう人々は、女系天皇はだめだとか、夫婦別姓はだめだとか、軍備を増強して日本を守るべきだとか言う。だが、日本が守るべき、大切にしていくべきは、こうした風景や自然であろう。


○ 恐怖の田舎

 ただ、実際の田舎というのは、非常に嫌な部分を持っている。それは、人々の強すぎるつながりであり、非常に窮屈な人間関係・近所づきあいであり、プライバシーという概念が希薄な点である。都会なら、数多くの人の中から気の合う人とだけ選択的に仲良くなればいい。しかし、田舎というのは、人もまばらで地域での共同作業も多いため、気の合う人を選ぶ余地はない。基本的に、近所の人たちと、地理的に強制されてつきあっていく必要がある。つまり、全く性質の違う者同士が、強制的に密な人間関係を強いられるわけである。また、田舎は基本的に娯楽も少なく、周囲の人の数も少ないため、近所の人の行動への関心が極大化し、常に近所の人の行動に逐一目を見張ることになる。また、その噂話が唯一の娯楽、といった状況になる。恐ろしい相互監視社会である。
 この映画でも、近所の老人が勝手に家にあがりこんで、我が物顔で振る舞い、なかなか帰らない様子が描かれている。その部分は、ちょっとしか描かれておらず、むしろほほえましいくらいの描き方になっている。だが、このシーンは、田舎の悪しき部分を明瞭に表している。毎日、毎日、こうした傍若無人の行動をされ、そして、近所の共同作業などにかり出されることに、ほとんどの人は耐えられないだろう。嫌なら、それは嫌だと言えばいいと思う人もいるかもしれない。だが、そんなことをすれば、極端に狭い共同体の中で、「あの家は変わり者だ」などと言われて、白い目で見られ、後ろ指さされる生活を何十年も送っていくことを強いられるだろう。恐ろしい...。


○ 深刻な社会問題

 また、この映画では、けっこう深刻な問題も提起されている。
 それは、老人の痴呆の問題である。
 この家族のおばあさんは、途中、わけのわからないことを言いだす。お父さんはそれを聞いて、自分の母親が痴呆症になってしまったことを悟り、涙する。
 痴呆というのは、非常に恐ろしい。人格がどんどん失われていく。体は生きているが、脳が萎縮し、思考が壊れていけば、それは、もはや、それまでのその人ではなくなってしまうと言っていい。
 そして、痴呆症の老人を介護する家族の負担というのも非常に大きく、家族は、かなりたいへんな生活を長期間強いられることになる。
 この映画のこのシーンは、そうした暗澹とした未来をも示唆する。
 老人性痴呆症の問題は、日本のみならず、世界中の国々にとって、非常に大きな問題である。


○ 別れ

 また、この映画の一つのモチーフは、「別れ」であろう。 
 最後、家族はこの場所を去らなくてはならないことになる。長女・梓美は、仲良くしてくれた中学校の友達と別れることになり、長男・智也は、サッカーチームの少年たちや、好きになったかっちゃんと別れなければならなくなる。そして、ある意味では家族の一員のようになった座敷わらしとも別れる。こういう、子どもの頃の別れは本当につらい。大人なら、会いに行くこともできるが、子どもはそうはいかない。多くの場合、こういう別れは、ほとんど永遠の別れに近いのだ。本当に寂しい。
 そして、おばあさんが痴呆になったことも、一つの別れと言えるだろう。おばあさんは亡くなったわけではないが、精神的には、もう元のおばあさんではない。これまでのその人はもう失われてしまったのと言っていいだろう。今はまだ軽症で、そうした症状は時折しか現れないかもしれないが、痴呆が進行していけば、もはや元のその人が現れることはなくなってくるだろう。


○ 映画の不自然なところ

 この映画は、いろいろなテーマを含んだ、非常にいい映画であるが、不自然なところもある。それについて少し述べようと思う。

 お風呂に入るのに、薪でお風呂を沸かしているが、それはいくら何でもありえないだろう。薪でお風呂を沸かすのは、重労働である。お風呂に入るたびに、誰かがたいへんな思いをしなければいけなくなる。雨の日はどうするのかと思うし、暑い夏の日に火の前で薪をくべるのは耐えがたいだろうし、寒い冬の日もかなりつらいだろう。
 いくら、古い家を演出したいといっても、薪でお風呂は、ありえないだろう。

 また、最後、学校の前で、生徒たちが梓美を見送ってくれるシーンも、ちょっと微妙である。もちろん、感動的でいいシーンではあるが、学校の前で、いつ来るかわからない梓美を、みんなが待っているというのはありえるのだろうか?田舎だから、道は一本しかなく、車がこの道を通るのは確実にわかっていたのだろうか?いつ頃この道を通るのかもわかっていたのだろうか?


○ かっちゃん

 それから、自分は、かっちゃんが女の子だと最後まで気づかなかった。
 浴衣を着ているシーンが出てきたときには、かっちゃんは、実は、女装趣味の男の子だったのだと思った。
 が、その後で、インターネットで調べて、かっちゃん役は沢木ルカという女の子だと初めてわかった。
 自分は、女の子に見える男の子や、男の子に見える女の子は、どっちもとても魅力的だと思う。手越祐也の女の子バージョンは、女の子よりかわいいが、もちろん、手越祐也は男の子としてもかなりかっこいい。この映画の智也・濱田龍臣も、ちょっと女の子っぽくも見える男の子だが、男の子としてとてもきれいな顔をしている。沢木ルカ、濱田龍臣には、これからもがんばってほしい。


○ 最後に

 さて、物語の途中、座敷わらしのいわれを語るシーンが出てくる。
 座敷わらしは、貧困のため、間引かれた子どもの化身だということである。間引く、というのは、子どもが生まれた後に、人数調整のために殺す、ということである。これはもちろん、残酷なことではある。だが、これは当時としては、他の子どもたちが生きていくためにも、仕方ないことであった。
 そうして殺すことになってしまった子どもに対する、かわいそうなことをした、申し訳ないことをした、という思いが、座敷わらしという、かわいらしく、家に幸福をもたらしてくれる妖怪を生んだのであろう。

 最近は、貧困率が上がった、などと言われている。しかし、現代に生きる我々は、貧困のために、子どもを普通に殺したりはしない。本当の貧困というのは、こうした残酷な状態であり、実際にそうした時代があったことを、我々はよく認識しておくべきだろう。
 昔はいい時代であったと漠然と思っている人もいるかもしれない。だが、昔はこんなに貧困だったということを、我々はしっかりと覚えておいた方がいいだろう。それを思えば、今の時代が、どんなに豊かでいい時代なのかを実感するだろう。
 現代を否定的にとらえるような言い方もよく聞く。しかし、自分は、とても豊かな時代に生まれることができたことを、日本人はもっともっとよく認識して、前向きにとらえて生きていくべきではないかと思う。


(完)

光太
公開 2013年10月29日

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