借りぐらしのアリエッティ (1)


「借りぐらしのアリエッティ」   米林宏昌 (監督) 2010年

評価: 49点


 この映画は、見終わっても、ほとんど何も感じなかった。
 いい意味でも、悪い意味でも、特段何も感じなかった。

 ジブリの映画は、初期の頃の作品はおもしろかった。だが、「ハウルの動く城」や、「崖の上のポニョ」を見て以降、ジブリの映画にはもう全く期待しなくなっていた。
 いや、それどころか、「ハウルの動く城」や、「崖の上のポニョ」のあまりの支離滅裂さとストーリーの完全な破綻に憤りを感じて以降、ジブリ映画は、格別に支離滅裂な映画であると覚悟した上で観るようになった。

 そして、この映画を見たのだが、本当にほとんど何も感じなかった。

 肯定的な評価でもない代わりに、特に否定的な評価でもない。「ふーん」と思っただけだった。


 が、「ふーん」と書いて終わりにしてしまっては、期待を持ってこのサイトを訪れてくれた人たちに申し訳ない。早速、評論に入ることにしよう。

 まず、こびとから見た世界を描くという、この映画の基本的なコンセプトはなかなかよい。発想としては比較的ありふれたものかもしれないが、実際にこういう世界・視点をダイレクトに扱った映画は少ないのだから、コンセプトはおもしろいと思う。こびとになったとき、世界はどう見えるのか、こびとはこの世界でどう生活しているのか、といった辺りをうまく描けば、相当おもしろい映画になるだろう。
 そして、実際、映画の最初の方は、猫やゴキブリやネズミとの遭遇や、人間世界の家具を登るシーンなど、それをある程度達成できていたと思う。

 個人的には、それをもっと徹底的にやって、その世界観を生かしたストーリーにすれば非常によかったと思うが、そうではなかった。この映画は、微妙なストーリーと、ちょっとおかしな人物たちが印象に残る映画になっていた。


 では、変だと思ったところを述べていくことにしよう。

 まず、これは誰でも思うことだと思うのだが、「借りぐらし」とか、「借り」に行く、とか言っているが、このこびとの家族たちのやっていることは、「借り」ではないだろう。
 砂糖にしても、ティッシュペーパーにしても、彼らは、「借りている」のではない。なぜなら、借りる、というのは、一時的に利用した後返すことを前提にしている言葉である(信じられなければ、辞書を引いてみよ。)のに対し、このこびとたちは、使ったものを返すことはないからである。正確な言葉で言えば、彼らのやっていることは、「もらっている」、それどころか、人間に断りもなく取っていってしまうのだから、これは、「盗んでいる」「くすねている」「奪っている」「略奪している」などが正しい表現だろう。(この「借り」という言葉の使い方から、自分はなんとなく、ジャイアンの論理を思い出した。)
 この映画は、子どもたちも見ているのだから、言葉は正確に使ったほうがいいのではないか。(美しい日本語が失われるなどと言って、日本語の乱れを嘆く常識おばさんたちよ、この言葉の乱れ方は、若者言葉やら抜き言葉の比ではないだろう。これほどの乱れを許してよいものだろうか?こぞってこのこびとたちの言葉をターゲットにすることをお勧めする。)

 仮に、「借りている」という言葉を使うなら、せめて、人間に別のところで人知れずお返しをする(人の手の届かないところに落ちてしまったものを元に戻しておいてあげるとか、壊れた時計を直してあげるとか、消し忘れたガスコンロの火を消しておいてあげるとか...。)などということなら、百歩譲って「借り」という言葉を認めてもいいが、こびとたちがそんなことをしている様子は全く描かれていない。
 描かれていなくても、当然そういうことはしているのだ、そんなことも想像できないなんて、なんと想像力がないのだ、と反論されるかもしれない。しかし、もしそうなら、それは省略すべきではない、当然描かなければならないシーンである。

 こうやって、人間のものを取っていきながら生活しているのに、このこびとの種族は、人間に対して悪い感情しか持っていないように見える。なんだか、一方的である。

 このこびとの種族が数人しかいないというのもかなりおかしい。
 このこびとの家には、いろんな家具や台所用品などがあったが、これらはどこで生産されたものなのだろうか?アリエッティのお父さんが全て自分で作ったとでもいうのだろうか?陶器を作るにも、金属を作るにもそれなりの大がかりな設備が必要である。アリエッティの家やその周りにそんな設備がある様子はなかったが、それらは一体誰が作ったのだろう?ある程度の規模の社会が存在しないと、こういうものを生産することはとても無理ではないだろうか?一定の規模の社会が存在しないことには、船が遭難して島に漂着したグループのように、本当に原始人のような野生的な生活以外不可能だと思うのだが、なぜ、このこびとの家にはこんなにいろいろな製品が整っているのだろうか?

 さらに、世界で数人しかいないらしいこの種族は、これまでどうやって維持されてきたのだろうか?
 アリエッティのお父さんとお母さんは、誰の子供で、その兄弟や親戚はどうなっているのだろうか?
 アリエッティの将来を考えたとき、結婚や子孫を残すことの重要性は非常に大きいと思うのだが、アリエッティのお父さんとお母さんは、アリエッティが誰と結婚して子孫を残すかについて、別に真剣に考えているようには思えない。
 最近、日本では、天皇家に男性がほとんどいなくなっていることから天皇家の存続が問題になっていて、女系天皇を認めるかどうか、といったようなことが真剣に議論されている。だが、この映画の世界における問題は、そんな生半可なものではない。なにしろ、種族が世界全体で数人しかいないかもしれないというのだ。こんなのんきにしている場合ではない。アリエッティのことを本当に考えるなら、すぐにでも同じ種族の仲間たちを探しに行かないと、アリエッティは将来、著しい孤独の生涯と、寂しさに押しつぶされる老後を送らなくてはならなくなるのだ。
 アリエッティのお母さんは、人間に見られることを非常に心配してあたふたしているが、そんなことよりよっぽど、将来確実にやってくるアリエッティの孤独な人生の方がはるかに深刻な問題である。アリエッティのお母さんはそもそも非常に近視眼的な人物に描かれているが、心配の方向性があまりに的外れだろう。

 そして、こびとの世界を描くような、世界観の違いをおもしろがるような物語では、スケールの違いをとても大切にしなければならない。つまり、こびとの身長がどれくらいに設定されており、したがって、人間の世界が何倍であるのか、というところをきちんと設定しておく必要がある。
 だが、この映画はどうもおかしいのだ。
 途中で出てくるゴキブリは、アリエッティの大きさほどもあった。となると、アリエッティはかなり小さいはずであるが、アリとのシーンでは、アリエッティはかなり大きく見える。
 また、アリエッティは洗濯ばさみのような髪どめをしている。だが、角砂糖の大きさに比べて、この髪どめはかなり小さいように見える。角砂糖より小さい洗濯ばさみがあるのだろうか?
 そして、アリエッティが、窓の鍵を内側から開けるシーンがある。一般に、鍵は、あまり簡単に動いては困るので、ある程度かたく作ってある。だから、人間が動かすにもある程度力を加えないと動かない。体に比例して筋力も小さいだろうこびとたちがそれを動かそうと思っても、不可能なはずである。だが、アリエッティはそれをいとも簡単そうに行っている。とてつもない怪力の持ち主である。人間におきかえてみれば、10トン程度のものは軽々と持ち上げられることになるかもしれない。

 こびとから見た世界という架空の世界観を楽しみたいのに、その時に応じて都合よく身長の設定が変わるのでは、見ている方は困惑するばかりである。
 そんなに大きさを変えたければ、いっそのこと、時には顕微鏡で見なければ見えないくらい小さくしたりすればよい。そして、迫りくる細菌や白血球と戦ったりすればよい。どうせ大きさを都合よく変えるなら、それくらい思い切ってやればよいだろう。

 アリエッティが初めて「借り」に行き、台所を見て、「こんなに大きいなんて...。」と驚くシーンもおかしい。アリエッティは、普段から、人間の世界のものを見ているし、周りのいろんな大きいものを見ているはずである。それを、さも初めて見たかのようにわざとらしく驚くのもおかしい。劇団四季もびっくりの迫真の演技である。

借りぐらしのアリエッティ (2)に続く!

光太
公開 2012年1月7日

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