ハウルの動く城


「ハウルの動く城」   宮崎駿 (監督) 2004年

評価: 3点(100点満点中)


 この映画は難しい映画だとか考えさせられる映画だとかいう感想を時々聞く。だが、全くそうではないと思う。
 自分には、そういった感想は非常に安易で思慮の浅い感想に思える。

 そういう感想は、この映画を見ても意味がわからなかったから出てきたのだと思うが、映画を見て意味がわからない場合の原因は二種類あるだろう。一つは、本当にその映画が難しいという可能性である。もう一つは、その映画がそもそも映画として大きな欠陥があるから、見ていてもわからないという可能性である。こちらの場合、どんなに頭がよく、鋭い洞察力を持っている人でさえも、その映画を理解することはできない。映画を見てわからなかったとき、自分で考えることを放棄して、安易に、この映画は難しいと結論づけてしまうのではなく、映画が難解なのか、それともその映画に欠陥があるから見ていてもわからないのかをちゃんと判断したほうがいいと思う。

 では、難しい映画というのは、何か?
 それは、映画を一見しただけではその内容を理解するのが困難だが、映画の至る所に緻密に計算された謎解きの鍵が隠されており、何度も見るとそれがわかるというものであろう。そのような映画であれば、いくら難しくともそれはレベルの高いよい映画と言えるだろう。

 だが、「ハウルの動く城」は難しいのではなく、映画の展開が、全くの支離滅裂であるとしか思えない。

 以下に、この映画が支離滅裂なことを示す典型的な例をいくつか列挙してみよう。

     
  • この映画では戦争が大きな意味を持っているのだが、この世界でそもそも戦争をしている理由がわからない。どことどこが戦っているのかもわからない。
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  • そして、最後に戦争が終わる理由もわからない。いきなり、王宮の魔法使いサリマンが、「総理大臣と、参謀長を呼びなさい。このばかげた戦争を終わらせましょう。」といって最後を迎える。そんなことを言ってこの戦争を終わらせることができるなら、そもそも戦争をしているのがおかしいし、ばかげた戦争を最初から終わらせないことこそ、よっぽどばかげている。
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  • ハウルが毎日戦争に行っているが、ハウルが戦場で何をしているのかもわからない。誰と戦っているのか、そもそも戦っているのかどうかすらわからない。これでは、ハウルの行動にも、戦争にも、どんな思いを持っていいのか、見ている者は困惑するだけである。
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  • ソフィーの髪の色がときどき変わる。この世界、そして、この物語では、姿を変えさせられたということが大きな意味を持っており、髪の色の変化も重要なものであるはずなのだが、これが、どういう基準で変わっているのかもわからない。
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  • ソフィーにかけられた魔法が最後にどうして解けるのかもわからない。魔法がとける、といった重要な出来事には、普通それなりの必要条件があって、それが説明されているからこそ、見ている人々は、登場人物たちがその目的に向かってがんばっている姿を応援するわけである。だが、それらが見る者には全く伝えられず、魔法がとけてもその説明も解釈も聞かされないのでは、見ている者は唖然とするだけである。例えば、ある時、息を吸ったら、何の脈絡もなく魔法がとけたとしたら、見ている者は憤りを感じると思うが、この展開ではそれと大差ない。

 こういった、物語の根幹に関わる部分すらわからないというのは映画として大問題である。
 もちろん、これでも、見ている人がそれぞれ、ストーリー全てを自分で補うことはできないことではない。だが、見る人に断片情報から全てのストーリーを構築させようというのは、映画の作りとしていくらなんでも無責任ではないだろうか。

 そればかりではない。自分には、例えば、ソフィーが、自分を老婆の姿に変えた魔女を、ハウルの家の中に導きいれたのも、理解不能であった。これも、ソフィーの優しさを表現していると言われればそれまでなのだが、この、魔法の世界においては、何が起きるかわからない中、そんなことをする魔女をハウルの家の中に入れてしまうとはどういうことなのか?ハウルの家に対して都合の悪いこともするかもしれないし、さらに他の人をも別の姿に変えてしまうかもしれないし、責任が持てるのだろうか?こうしたソフィーの行動も、あまりにも常識を逸脱していて、自分には、理解できなかった。

 結局のところ、この作品は、単なる、ハウルの写真集・映像集に過ぎないと思う。
 かっこいいハウルの登場する場面が断片的に現れる、イメージ映像の寄せ集めである。そこには何の物語もメッセージ性もない。

 反戦的なこともちらっと表現されるため、反戦がメッセージだという印象を持つ人もいるかもしれないが、それも深読みのしすぎというか、映画を善意にとらえすぎだろう。反戦がテーマなら、そこにそれなりに比重を置いた作りにするべきだと思うが、それに直接関連するシーンはわずかであって、反戦がテーマとは全く思えない。いっそのこと反戦色を全面に出した映画にしてもらえば、見ていてすっきりしただろうし、その方がかなりよかったと思う。

 また、この映画のテーマとして、愛に年齢は関係ないといった文句も時々見かける。だが、この映画はそんなことを表現しているだろうか?映画の最後に、ソフィーは元の若い女の子に戻る。ここで、多くの人は、よかった、とほっとするだろう。自分はそこに、結局は年齢や容姿が大事だということになるのではないのか、という疑念を受け取った。愛に年齢は関係ないということなら、ソフィーが老婆のままの年齢・姿でも全く問題ないはずで、ソフィーは老婆の姿のままであり続けながらも、年齢に関係なく愛されるという展開にする方が適切だと思うのだが、いかがだろうか。
 つまり、この映画は、愛に年齢は関係ない、ということなど全く表現していない、というのが自分の感想なのだが...。

 これまでの宮崎映画には好きなものもあった。だが、これまでも、宮崎監督は実は映画の中で何らかのメッセージを表現しようという意図はほとんどなく、個々の映像の映像美を追求しているのではないかという疑念を感じていた。
 「ハウルの動く城」を見て、この映画でそれがはっきりしただけで、実は過去の映画からして、宮崎監督はそうだったのではないかと思うようになった。

 ハウルは確かにかっこいいのだと思う。(木村拓哉の声には、批判的な声もたくさんあるようだが、個人的には映画に合っていると思った。)
 ならば、この映画のキャッチコピーは、
「かっこいいハウルのイメージ映画!ストーリーもメッセージもないため、余計なことは考えずハウルの魅力を思う存分堪能できます!」
などとしてくれれば、ハウル支持派にもストーリー破綻派にもよかったのではないだろうか。

(完)

光太
公開 2011年5月7日

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