「踊る大捜査線 The Final 新たなる希望」 織田裕二(主演) 2012年
評価: 30点
自分は、「踊る大捜査線」ファンである。
ドラマも好きだったし、これまでの映画も好きだった。
だが、この映画の点数は30点である。
この30点も、この映画につけたものというよりは、これまでの「踊る大捜査線」のおもしろさに敬意を表しているとか、内田有紀がかわいかったとか、そういうことに与えた点数である。
名シリーズである「踊る大捜査線」の最後を飾るこの映画は、残念ながら、全然おもしろくなかった。おもしろくなかったというより、むしろ、不快感が残った。
ストーリーにあまりにも無理がありすぎ、しらけてしまうのだ。
まず、最初がよくない。
踊る大捜査線の映画版では、冒頭でちょっと意表を突いたエピソードが入るのが定番である。
今回は、唐揚げ屋での張り込みであった。
だが、いくら趣向を凝らしたかったといえども、唐揚げ屋を開いて張り込むというのは、あまりにも無理がある。
警察官が唐揚げ屋を開いて営業していることが、どう犯人逮捕に役立つのか全くわからない。必然性のないことをされても、見ている方は困ってしまう。職場の演劇大会の練習じゃあるまいし...。こんなに無理のある設定にした理由は、青島とすみれの仲のよさそうな夫婦シーンを見せたかったのだろうとか、見ている人に、こんな設定は予想できなかった、と思わせようと考えたのだろうとか、制作者側のあまりにも短絡的な魂胆が見え透いている感じがしたのである。
で、自分は冒頭から、ちょっとしらけてしまった。
そして、ビールの誤発注のエピソードである。
誤発注したビールをみんなで隠すというのも、なんだかなあ...、という感じであった。間違ってビールを注文するというのも、それを返却できないというのも、ありえないし、発想があまりにも陳腐である。昔のドリフターズとかのドタバタ劇じゃないんだから。
こんなわざとらしい演出をおもしろいと思う人がいるのだろうか?
戒名のエピソードは、その発想自体は悪くはないのだが、元所長の提案する戒名があまりにも長すぎ、ありえなさすぎる。とぼけたような捜査本部名を提案するのはいいにしても、もっと短くて気のきいたものを提案してくれればまだよかったが...。
鳥飼管理官が、青島と室井の免職を迫るのも意味が分からない。鳥飼は、この二人に対して無実の罪を着せるほどの恨みでもあるのだろうか?あるなら、映画の中でその背景を描く必要がある。また、仮に恨みがあったとしても、さすがに、そんな理不尽な免職の訴えを、上層部が認めるはずはない。何の落ち度もない青島に、こんな濡れ衣を着せてやめさせるなど、無理があり過ぎるし、それを青島が唯々諾々と受け入れるはずはない。そんなことをすれば、到底納得できない青島が裁判を起こし、警察組織はたいへんなことになるだろう。湾岸署の多くの職員たちは、その現場を実際に目撃しているのである。裁判が開かれれば、彼らは、青島と室井が無実の罪を着せられたという、警察内部の重大犯罪について、次々に証言台に立ち、証言してくれることだろう。だから、こんな理不尽な展開は、どう考えてもありえないのである。これでは、観客は、青島たちが刑事をやめさせられるのか...、とハラハラドキドキすることなどなく、この展開の意味不明さに不満を持ってバカバカしい気分になるだけだろう。
途中で、小池課長や鳥飼が、疑わしいという状況になる。しかし、彼らは途中で身柄を拘束されるわけでもなく、捜査本部でうろうろしている。なぜ、事件に関わっているかもしれない疑わしい人物をそのままにして自由にさせているのだろうか。
青島刑事が、自転車を借りて、「犯人の気持ちになって...」というのも、全然共感できなかった。事態は一刻を争うというのに、スピードがそれほど出ない自転車で行動するのもおかしい。犯人が子供を殺す時間が迫っている中で、そんなのんきなことをしている場合じゃないだろう。また、犯人は自動車で行動しているはずなのに、自転車でルートをたどったところで、犯人の気持ちになれるのだろうか...。自転車と自動車とでは行動可能範囲が全然違うのである。自転車で移動などしていたら、視野が非常に狭くなり、判断ミスをすると思うのだが...。青島の一生懸命さを演出しようという魂胆が見え見えで、白々しい思いになるだけであった。
最後の、すみれさんがバスで突っ込んでくるシーンは、あまりのバカバカしさに、開いた口がふさがらなかった。倉庫の中がどうなっているか全くわからないのに、いきなりバスで突っ込んだとき、それがこの映画のように事件解決に役立つ可能性などほとんどない。人質である子供は既に青島に安全に保護されているかもしれないし、倉庫の中に、バスの強度よりはるかに強い強度の金属性の巨大な機械がおいてあるかもしれない。そして、すみれさんは、青島刑事や子供が、倉庫のどの位置にいるのか、全くわかっていないはずである。それなのに、バスで突っ込んだりしたら、子供や青島刑事もろともひき殺してしまう可能性も高い。死ななかったとしても、半身不随になったり、脳に大きな傷害が残ったりするかもしれない。すみれさんは、どう責任をとるつもりなのだろうか。これでは、映画の終盤で新たな殺人事件が発生し、新たな捜査本部を立てなければいけなくなってしまう。一体どういう判断であんなおかしなことをしたのか、すみれさんに問いただしたい。
そして、すみれさんが、どうやって、乗客も乗っている九州行きのバスを借りた(奪った?)のかもよくわからない。すみれさんが最初から、まるで自爆テロリストのように倉庫に突っ込むつもりだったら、運転手がバスを貸すはずはない。
整合性は全く無視して、ただ、見せ場を作ればいいというものではないのだ。いくらなんでも、観客をバカにし過ぎではないだろうか。
また、今回の映画には、感動的な場面がなかった。
「踊る大捜査線」には、和久さんの語りや、青島刑事から室井への、現場重視の訴えなど、感動的な場面があった。
コミカルな中にも、そういう部分にファンたちは感動を覚えてきた。
だが、今回は、そういう場面はなかった。
むしろ、この映画では、悪役の久瀬や小池や鳥飼が、警察組織の規則に縛られた硬直的な対応によって子供の命が失われたことを恨んで、今回の事件を起こしている。まず、この展開には、いくら、当時の対応が悪かったからといって、同じような事件を起こし、その彼らが無実の子供の命を奪うだろうか、という疑問も残る。また、彼らの意志は、青島がこれまで訴えてきたことと共通している点もあるのだから、もっと、彼らの内面の葛藤などを描いた方がよかったと思う。青島にしても、当時の彼らに対して、心情的には少しは理解できなくもない、といった部分を表現した方がよかったのではないか。そうしないと、今回の映画では、青島がこれまで訴えてきたことが否定されたかのような印象も与えかねない。久瀬、小池、鳥飼の三人は、動機には、過去の青島刑事たちと共通のものがあったにも関わらず、この映画では、彼らはただの狂った犯罪者である。
そして、この映画では、組織改革などへの熱意も感じられず、感動的な場面は一切なく、涙がこみ上げてくる場面もなく、何というずさんなストーリーだ...、と不愉快な気分でいるうちに、映画は終わってしまった。
この映画は、公開83日間で、460万人動員という記録を残している。
映画館に、460万人もの人が足を運んだというのは、すごいことである。「踊る大捜査線」が好きだった人たちも、その最後の作品を見ようと、半ば惜しい気持ちで、そして、わくわくしながら劇場に出かけたはずである。その気持ちを、この映画は見事に裏切った。映画を見た人たちは、このストーリーに、もやもやした気分になったり、唖然としたり、がっかりしながら帰っていったことだろう。これだけの人数の人々の期待を大きく裏切った罪は重い。
「踊る大捜査線」の最終版として、こんな作品を作ってしまった監督以下スタッフたちに、憤りすら覚える。
「踊る大捜査線」に出演してきた役者たちは、こんなおかしなストーリーに、何の苦言も呈さなかったのだろうか?スタッフたちも、何の抗議もしなかったのだろうか?「踊る大捜査線」シリーズを愛する人たちなら、文句を言って当たり前だと思うのだが...。
本当に好きなシリーズだったので、最後にこんな批評を書かねばならないことをとても残念に思う。
もう、次作はないのだ...。
(完)
光太
公開 2013年11月15日