アメリカン・ビューティー


「アメリカン・ビューティー」   サム・メンデス (監督) 1999年

評価: 94点


 この映画を見終わった後、静かな温かい気分になった。

 この映画には、現代アメリカ社会の暗部が描かれていると言われることがある。だが、自分には、それはあまりにも表面的な解釈であるように思う。
 この映画が描いているものは、現代社会の暗部などではなく、社会の建前と個人の願望の間に厳然として存在する深いギャップを、この映画は見る者に真正面から突きつけていると思う。
 これを正面からとりあげることは、数ある映画の中でも実は極めてまれで、非常に勇気のある作品だと自分は考える。その意味で、たいへん傑出した映画であると言えると思う。

 人間の行動は、社会、家族、人間関係のいずれにおいても、そもそもが個々のいろんな欲望の上に成り立っている。だが、社会は秩序を保つために、そこに道徳的縛りを与えている。その道徳的縛りがあるからこそ、人々は欲望のままに生きることはせず、社会は維持されている。しかし、その縛りにそのまま従うのは、時に本能的な欲求や自由を強烈に抑えなければいけないつらさと一体である。

 社会によって理想とされている、型にはまった建前の家族を演じること、建前の夫や父や母や軍人を演じることなどは、それが個々の心情と一致する限りにおいては何の問題もないが、そうでない場面が必ず出てくると思う。そうしたとき、その演技を苦痛の上で続けるのか、または、家族などの共同体を犠牲にしても、無理をして抑圧した自分をある程度解放するのかというのは、人間にとってかなり普遍的な、人生の大きな問題であると思う。

 社会を構成する多数派が、この作品の中の登場人物たちのような選択をしていけば社会は揺らいでいくだろう。
 しかし、不本意な、型にはまった建前を、自己を抑圧して遂行し続ければ、それは時には人々に非常な圧迫感をもたらすことになりかねない。映画では、隣家の退役軍人の父親が、そうした人々を象徴的に表現している。自分は、この社会が、この映画に出てくるさまざまな人たちを、ある程度許容するような社会であってほしいと思う。この社会を、人々が社会の建前にのみ縛られて、ただただ粛々と生きることを強いられる、窮屈きわまりない社会にしてはいけないと自分は思う。
 社会の秩序を一定程度保ちながらも、人々のこうした欲求をある程度解放できる社会の構築こそ、我々の目指すべき道ではないだろうか。

 最後、この主人公は、感謝の言葉を述べ、これまでの自分の人生は幸せだったと言って去る。これは、社会に不適応な者の、精神的に追いつめられた結果出てきた強がりではなく、これは恐らく主人公の真意であろう。しかも、ポイントは、この言葉の中に、2つの点が含まれることである。一つは、自己を解放した後に生き生きと生活した自分自身に対して満たされた思いが感じられることである。また、もう一つの点は、主人公が自己を解放する前に曲がりなりにも守ってきた家族や共同体というものにも温かい言葉を残していることである。この両方が含まれている点が、重要な点だと自分は思う。

 そして、この映画は、軽薄な恋愛映画よりはるかに、愛とは何かということの本質について迫る作品でもあると思った。軽薄な恋愛映画というものは、恋愛初期の一時期の熱病的な状態を中心に描き、その状態が、あたかも永遠に続くかのような、極めて底の浅い描き方をしている。だが、現実の、例えば結婚生活というものは、それとは全く異なるものである。結婚以前のつきあっている状態ですら、現実はいろんな要素が複雑に絡み合った結果として生じているものであり、軽薄な恋愛映画のような状態には、実生活ではほとんどならない。軽薄な恋愛映画は、そうした残念な現実から逃避するためにあるのだという解説もあり得ようが、そこから得るものは極めて少ないように思われる。
 それに対し、この映画は、愛とは何かということに関しても、非常に多くのことを考えさせる。軽薄な恋愛映画もいいが、たまには、こうした映画を見て、現実の愛の本質について考えてみるのもいいのではないかと思う。

 人それぞれいろんな人生観があると思うが、自分は、この主人公の最後の言葉には、素直に大きな感動を覚えた。
 そして、自分が死を迎えるときには、この主人公と同じような境地に達したいと思った。

(完)

光太
公開 2011年5月14日

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