八日目の蝉


「八日目の蝉」    成島出 (監督) 2011年

評価: 95点


   この映画はかなりおすすめである。
 多くの人が号泣するだろう。
 自分も、もちろん、号泣した。

 この映画が投げかけている内容は、かなり重要であると言えよう。

 この映画の一番のポイントは、実の親(生物学的な親)でなかったとしても、実の親よりも、子どもにとってよっぽどよい親になることもあるいうことであろう。

 本題はそこなのだが、その前に、ほんのちょっとした問題について少し触れよう。

 この話には、おかしな宗教団体エンジェルホームが登場する。誘拐犯の希和子は、誘拐した子供恵理菜(薫)と共に、しばらくの時間をそこで過ごす。
 この団体の生活がなかなか興味深い。女性だけの集団であり、個人個人に外国人の名前をつけて呼び合い、また、食事中は話をするのは禁止だということである。現実にこういう集団があるのかどうか自分は知らないが、オウムのような団体も存在していたのだから、この程度の特異性は全然おかしくないのかもしれない。
 自分は、そういう奇妙な団体の描写に非常に興味をそそられた(もちろん、入りたいとか、そういうことではなく、客観的に観て、おもしろいということである)。

 さて、この物語の最後で、新聞の全国紙に写真が載ったことで、誘拐犯である希和子は即座に逮捕される。このことからもわかるように、警察にも、そして、もちろん、子どもを盗まれた夫婦にも、犯人が誰かはわかっていたはずである。夫と不倫関係にあった女の人が突然消えたのだから、当然、それはすぐわかる。でも、警察が犯人を捕まえることができなかったのは、犯人の所在がわからなかったからである。このような場合、オウム事件の全国指名手配犯のように、写真が公開され、情報提供が呼びかけられるであろう。

 だから、希和子と恵理菜(薫)がこの宗教団体での生活を送ることになったのは意味があろう。それは、映画では説明されていないが、こうした警察の追っ手から逃れるためであろう。この宗教団体には、どうやらテレビもないようだったからである。いくらテレビなどがないとは言え、本当に世間の情報から隔絶した生活が可能なのかどうかわからないが、まあ、それはそれでよいとしよう。

 でも、問題は、この宗教団体を離れて、小豆島に渡り、生活を始めたときに、どうして、希和子たちは捕まらなかったのか、である。
 いくら小豆島が田舎とは言え、みんなテレビは見ているはずであり、この誘拐事件のことも知っているだろう。また、オウム事件の指名手配犯のように、駅にも犯人の写真が張り出されているかもしれない。なのに、なぜ、この島の人たちは、誰も、近くにいる希和子があの事件の誘拐犯だったとわからなかったのであろうか...?

 ,,,ということは気になるのだが、まあ、この映画の価値を考えれば、これはそれほど大きな問題ではない。

 ということで、話を戻そう。

 この映画のおもしろいところは、子どもの誘拐犯である希和子の、子どもへの愛を存分に描き、実の母親を、不安定で怒りっぽい人物に描いている点である。そして、観る者は、実の母親にはあまり共感できずに、むしろ反感を感じ、逆に誘拐犯に感情移入するように作られている。そして、最後まで、そのコンセプトを崩さない。

 実の母親があんなでは、仮に、子どもが誘拐されなかったとしても、子どもといい関係が築けたとは思えない。むしろ、誘拐犯とずっと一緒に暮らした方が、本当によっぽどよかったのではないか、と思わせる作りになっている。

 自分は、普段、悪者を主人公にしたような映画を見ても、悪者には一切感情移入せず、早く捕まれ!と思いながら映画を観ている。何か特別な事情があったなら考慮の余地もあるが、身勝手な理由でただ犯罪を犯し、他人に迷惑をかけるような悪い奴は許せないからである。犯人視点で描かれているくらいで、犯人に同化して映画を見るほど自分は暗示にかかりやすくはない。
 そんな自分が、この映画では、完全に、希和子と恵理菜(薫)の関係に感動してしまった。

 映画の中の実の母親が言うように、希和子が行った誘拐はもちろん、恵理菜(薫)と4年間本当の親子として一緒に暮らし、非常によい親子関係を築いてしまったということは、実の母親にとっては本当に残酷であろう。この4年間の体験が、その後の実の親と恵理菜(薫)の親子関係を困難なものにしたということも全くその通りであろう。
 だから、倫理的には、希和子と恵理菜(薫)がずっと一緒に暮らした方がよかったと思うのはよくないのかもしれない。
 そして、描かれている4年間の逃亡中の親子生活の様子には、いい面しか描かれていないということも言えるだろう。だから、この映画は、殊更に、希和子と恵理菜(薫)のよすぎる親子関係のイメージを観る人に与える作りになっていると言えるだろう。
 それに、一般的には、誘拐犯が、誘拐した子どもをここまで大事に育てるということは、もしかしたら普通は考えにくいことなのかもしれない。

 だが、そうしたことは踏まえた上でも、この映画は非常に重要なものを我々にもたらしてくれている。
 それは、大きな希望である。

 凡庸なアメリカ映画には、結局は実の親と子どもとの親子関係を賞賛するというようなストーリーがよくある。この映画のようなテーマをアメリカ映画で扱ったとすれば、誘拐犯との親密に見える親子関係は結局は単なる表面的なものであり、実の親とのつながりはやはり深かったというようなストーリーになるのだろうと思う。キリスト教的家族重視の思想が背景にあるのだろうが、単純すぎて実にばかばかしい。
 でも、この映画が、そのようなくだらない、型にはまった盲目的な道徳的ストーリーではなかったことは、本当にすばらしい。


 世の中には、実の親でない親に育てられている子どもたちがたくさんいる。不幸にして両親が亡くなってしまった場合もあるし、親が経済的理由その他で子どもを育てられなくなった場合、悲惨なケースでは児童虐待の場合もあろう。

 そのような、実の親でない育ての親と子どもの関係には、いろいろと難しい面もあるかもしれないし、子どもが成長していく過程で、思春期など、時には困難もあるかもしれない。
 だが、実の親でない親との間でも、この映画で描かれているような、実の親との親子関係よりはるかに勝るような親子関係が築けるのである。

 それを描ききったこの映画を、絶賛したい。

 そして、そうした親子関係を持つ全ての親子たちにエールを送りたいと思う。

(完)

光太
公開 2012年9月1日

気に入ったら、クリック!  web拍手 by FC2
光太の映画批評・ドラマ評・書評・社会評論