福島原発の事故の後、それに関わるとても残酷なことがたくさん起きている。
だが、これは、事故で放出された放射能によってもたらされたものではない。
放射能を必要以上に怖がっている人たちによって起こされているのである。
福島原発事故の後、実際の危険性の科学的な検討は一切せずに、一方的に放射能の恐怖にとらわれて、声高に恐怖を叫んでいる人たちが、結果として、深刻な風評被害を広げてしまっていることについては、1年ほど前に「福島原発事故の放射線は危険なのか? (4)」で論じた。
ところが、その後も、本当に悲しくなるような事態が次々に起きている。事故から1年以上たった今、ここでは、それらについてまとめておきたい。
これらは、残念ながら、反省を持って振り返るべき過去のことではなく、現在も起こり続けていることである。
○ 悪いのは誰か?
福島原発事故の後、放射能に関連する、憤りを感じるような非情な出来事が次々と起こった。
福島の花火の拒絶、福島の応援ショップの出店拒否、毎年開かれていた青森の雪を使ったイベントの中止、検査済みのがれきの受け入れ拒否...。
本来、こんなことは起こらなくていいことである。
これらは、放射能による健康被害に関する科学的なデータを無視して、放射能に対して過剰に反応する人々によって起こされている。
そして、それを煽ったのは一部の雑誌・テレビなどのメディアである。
いろいろな過去の被曝のデータをきちんと考慮すれば、福島原発からの放射性物質の危険性のある場所は、原発周辺のごく一部であることくらいすぐわかる(例えば、あなたは、100ミリシーベルトの放射線をゆっくりと浴びたとき、人体にどんな影響があるか正確に答えられるだろうか?わからない人は、ちょっと過去の記事で恐縮だが「福島原発事故の放射線は危険なのか? (1)」へ。)。
科学的知見に基づいた、危険性はない可能性が非常に高く、ほぼ確実に安全であるという情報や専門家のコメントにはあまり言及せず、危険だ危険だ、と人々を怯えさせる情報を選択的に毎日のように取り上げ、それを強調するキャスターのコメントばかりを流しているマスコミの罪は重大である。
だが、もちろん、悪いのはマスコミだけではない。怖いぞ、怖いぞという情報は科学的でないのに、そういう情報ばかりを血眼になって探して無批判に信じ、科学的なデータに基づいて、きちんと安全性を評価している報道の方には、政府は隠している、専門家も信用できない、などといって一向に信じようとしないそういう人たちにこそ、最も大きな責任がある。
そういう人たちに、後で、危険だというメディアにだまされていた、などと言う権利はないだろう。信頼できる情報もあるのに、信頼できない情報ばかりを選択したそういう人たち自身に最も大きな責任があるのだ。
こうした感情的な人々によって、本当に悲惨なことがたくさん起きてしまった。
ここにまとめているのいくつかは、いわれなき差別であると言ってもいい。
放射能を怖がっている人たちは、いかにも、自分たちが知的で真実を知っていて、事実を隠している悪い組織に対して真実を突きつけているのだと思っている節がある。自分たちは勉強していて真実を知っているが世間の人々は真実を知らず、それは勉強していないからだと思っている。そして、自分たちが、それを知らない人たちを啓蒙する正義の行動をしているかのように思っているようである。
だが、それは全く違う。本人たちは勉強していると思っているかもしれないが、残念ながら実際は、ホラー映画的に恐怖を煽る、誤った印象を与える資料や講演、ネットの情報を無批判に感情的に信じようという活動を勉強と称しているだけのように見える。きちんと勉強するというなら、信頼できる手法、サンプル数に基づいたデータを使って、安全性をしっかり評価している研究成果を勉強すべきである。そして、思っていたより危険性はきわめて小さかったのであれば、そういう認識をきちんと持つべきである。ところが、安全性を示す情報に遭遇すると、それはなかったことにしてしまう。今の状況では、修行をしなければ地獄に堕ちるというようなインチキカルトの脅迫文書を読んで、たいへんだ、たいへんだと言っているのと大差ないように思える。それは偏った見方で作られた情報なのだよ、と忠告する情報もあるのに、それは無視して...。
そうした人たちのやっていることは、害のないレベルのものを、科学的な検討や検証を無視して、感情的に危険性が高いと位置づけて、一方的に恐怖に陥り、非科学的な恐怖の情報の噂を広めて風評被害で東北の人たちを困らせるというとんでもない行為に見える。そして、やっていることは、結果的に、かなり残酷なことである。
こうした人々には、本来、人権を大事に思う人たちが多いのではないかと思う。差別などにも敏感な人たちであると思う。だが、この放射能の件については、こうした人たちは、非科学的な感情に基づいて、正義を振りかざし、結果として東北の人々を陥れるようなことをしている。
ずっと前に「福島原発事故の放射線は危険なのか? (4)」でも論じたとおり、風評被害は深刻である。東北地方の人たちの生産活動を妨害し、生活を危機に陥らせ、精神的苦痛を与えている。
1年以上たった今、そうした風評が東北地方の復興の足かせになるようなことは、なんとしても回避しなければならない。
原発事故では、恐怖に陥った人たちのヒステリックな声ばかりが大きく聞こえる。
しかし、原発事故後に起きてきたこうしたことに対しては、本当に理性的な人たちの側もしっかりと声を上げて、不当に恐怖を煽る声ばかりが社会を席巻することがないようにしていかなければならない。
そして、以下で取り上げているような残酷なことは二度と繰り返さないようにする必要があると思う。
○ 打ち上げられなかった花火 2011年夏
2011年の9月、福島県産の花火が愛知県日進市の花火大会で打ち上がるはずだった。
この花火はその前年に製造されたものである上に、花火工場の放射線量も低く、もちろん無害であることはわかっていた。
こうした花火が上がることは、東北の復興のシンボルの一つであり、花火を見る側も震災や東北に思いをはせ、花火を提供する側もそうした東北の産業の一端を示せる一つの機会として、まことにすばらしい心温まるイベントになるはずであった。
ところが、これが中止になった。
花火により、放射能がまき散らされるというのである。
危険な放射能がまき散らされるようなことが実際に起こることはない。この花火は確実に無害である。
こうした行為がどんなに東北地方の人たちを傷つけるだろうか。
そんな要求ができるなんて、人間性を疑う。
こんなことがまかりとおるなら、黒人はばい菌を持っている、同性愛者は病気を持っている、などと、非科学的なことを言ってそういう人たちを差別するのと状況はかなり似てくる(もちろん、同じだとは言わないが)。
こうやって、東北に関わるものを、実際の害は無視してただただ忌避し、それを他の人たちにも声高に強要しようとする人たちのやっていることは、ひどいことだと思う。もちろん、これは、人を陥れてやろうという気持ちからでは決してなく、不安感情から出てきたものであろう。
でも、科学的な検討を無視して、こんなことをしていいとは自分は思わない。
光太
公開 2012年7月9日