放射能と差別 (2)



これは(2)です。「放射能と差別 (1)」から読むのをおすすめします。



○ 売られなかった福島県の商品   2011年夏

 2011年9月、福岡市の商業施設マリノアシティで「ふくしま応援ショップ」が、福島県の生産物を売る計画になっていた。ここで売ろうとしていたものは、原発事故の後で採れたものではなかった。原発事故の後で採れたものでもほとんどのものは規制値以下で無害(仮に規制値を上回っていたとしても、それを数百回食べたくらいでは人体に影響のあるレベルにはならないが)であるが、百歩譲って、そうした野菜に不安を感じる人がいるのはわからないでもない。だが、この応援ショップが売ろうとしていたものは、原発事故より前に収穫されたものを利用した加工品であった。
 これに対して、この出店を計画している団体に、「福島の産物を持ち込むな」、「トラックが来るだけでも放射性物質を拡散する」といった、実に理不尽なクレームが相次いだ。そして、その応援ショップは結局販売をあきらめねばならなくなったのである。

 もし、このふくしま応援ショップが、福島県のものを売っていたとしたら、福島を応援したいと思っている多くの人たちがいろいろなものを買ってあげただろう。そして、それは福島の人たちに対して、わずかながらも金銭的な支援になっただろうし、応援している気持ちが伝わることは、心理的にも福島の人たちを支えることになったことだろう。
 だが、それは、実現しなかったのである。
 そして、このことは、福島の人々の気持ちをたいへん傷つけたことだろう。

 応援ショップやその商業施設にも、こんな理不尽な声には毅然として対応してほしかった。ただ、商業的な観点からして、こういう強い主張が、ごく一部の人の声であっても、それを遮って出店させることは難しかったのかもしれないが、なんとかならなかったのだろうか。

 買いたくない人は買いに行かなければいいだけのことである。福島のものを県内に持ち込まれることを一切認めないなど、常軌を逸している。これはひどい差別ではないのか?
 悪意からではないとはいえ、害のないはずのものを害のあるものであるかのように言い、そのうえ排除するなどということは、ただでさえつらい思いをしている福島の人たちに、たいへんな苦痛を与えるだろう。

 こんな心ないむごいことをすることが許されていいのだろうか。


○ 届けられなかった雪   2012年冬

 沖縄の子供たちに、毎年、青森県から雪が届けられる。
 雪が降らない沖縄の子供たちにとって、これは、見たこともない雪を見ることができる、本当に楽しいイベントだと思う。雪の降らない場所で育った子どもたちは雪が大好きである。
 自分は雪がめったに降らない地域で育ったが、幼稚園のころ、雪を見に行く遠足にすごくわくわくしたものである。

 ところが、この雪が、2012年の2月には届けられなかったのである。
 東北から沖縄に避難した人たちが、わざわざ避難しているのに雪を東北から持ってくるとは何事か、と理不尽な要求をしたためである。

 もちろん、この雪は安全である。断言できる。
 何も、福島の原発近くの雪ではないのだ。青森の雪である。
 そして、放射能測定もし、原発事故以前の水準と同じであることが確認されていた。安全が保証されていたわけである。

 これを阻止しようなどというのは、人道的に考えてもいけないことだと思う。

 もし、そんなに嫌なら、自分たちが雪のイベントに行かなければいいだけの話である。
 それを、他の子供たちが雪を見る機会まで奪うなど、とんでもないことである。身勝手にもほどがある。
 そして、こういう行動は、青森の雪に対しても、恐らく他の農産物などに対しても、そういうものは怖いのではないかという、風評被害を世間に広めることになる。
 科学的な根拠もなく、そんなことを主張してはいけない。

 これを主張していた人たちは、そもそも、沖縄に避難しているくらいだから、放射性物質に対してかなり過剰に反応している人たちなのだろう。放射能は怖いという報道を盲信してしまっていて、本当に不安でしかたないのだろう。だが、東北地方に住んでいたのだから、今東北地方に住んでいる人たちのことをリアルに想像できると思う。自分勝手な不安妄想で、雪で遊びたいという他の子供たちの機会を奪い、風評被害を広げて東北の人を苦しめるなど、あまりに無神経ではないか。やっていいことと悪いことがある。

 もちろん、原発事故が起こらなければ、その人たちは何も不安に思うこともなかっただろうし、経済的に大きな負担を負ってまで沖縄に行く必要もなかった。また、原発事故に関して、まことしやかに不安を煽るメディアやネットの情報が、その人たちの周りにはたくさんあふれている。そして、不安に思う度合いは人によって違うし、どういう感情を持つことも最大限尊重されるべきである。そして、不安感情をコントロールするのは、とても難しい。
 でも、である。そうしたことを考慮しても、やっぱり、他の子供たちが楽しむ機会を奪ったり、東北地方に風評被害を広げるようなことをしてしまったことには、とても憤りを感じる。

 そして、このイベントの主催の那覇市の方も、しっかりと安全性の確認もしているのだから、そんな不当な要求に屈することなく、毅然とした対応を取るべきだったと思う。


○ さいたさいたセシウムがさいた   2012年春

 2012年3月、「国際女性デー埼玉集会」の講演会で、米国出身の詩人アーサー・ビナード氏が、「さいたさいたセシウムがさいた」というタイトルの講演を行おうとした。
 言論は自由だし、どういうタイトルで何を発表しても、基本的には許されるべきである。

 だが、やはり、このタイトルはいかがなものだろうか。

 この件については、抗議の声が多数寄せられたそうである。
 そうした抗議の声の中には、このタイトルが、原発事故をパロディ化しているように感じ、2011年8月にあった、東海テレビの「怪しいお米 セシウムさん」に対して感じたのとと同じような感情を持って、このタイトルや講演会に嫌悪感を感じたものもあるようである。

 だが、東海テレビの問題とこの問題はかなり質が異なる。東海テレビのものは、ただ単に面白半分に書いたものが外に出てしまったという偶発的な事故なのに対し、この講演者は、決して原発事故を茶化しているのではなく、原発事故の恐怖をより強調するために、意図的にこのタイトルを使っているのである。また、原発事故の恐怖を強調するには、こうしたフレーズが効果的であることもよくわかった上でつけたタイトルであったのだろう。

 このタイトルを聞くと、危険なセシウムでいっぱいの花畑を連想する。福島にそういう場所があるようにも想像する。人によっては、それが花粉やタンポポの綿毛のようなものとなって周りに飛んでいく様子も想像するかもしれない。

 だが、今でも、福島の農家、畜産農家の人たちは、せっかく作った作物や肉などが、本当は全然無害なレベルなのに、買ってもらえなくて本当に困っている。売れるはずのものが売れないことによって、収入が絶たれてしまうのである。なんと理不尽なことだろうか。
 こうした中で、福島が放射性物質でいっぱいで、福島の作物がセシウムでいっぱいであるかのようなこういうタイトルを掲げるというのは、あまりにも残酷である。

 福島に対して何かできることをしようと、福島の農産物を選んで買ってあげている善意の人たちもいる中、そうした人たちにさえ買い控えの気持ちを起こさせるかもしれないようなこうした表現は本当に配慮がないと思う。

 なお、これについては、このタイトルはおかしいのではないかという声が寄せられたため、このイベント自体が取りやめになったそうである。
 イベントを中止にする必要はないとは思うし、自分は、この講演への抗議の声が、何やらリベラルな人たちを嫌悪する人々による、リベラルな人たちへの攻撃の面もあるように思えた。また、この件が、福島や東北の農産物などに対する放射線の恐怖を過剰にあおる、解説的な誇張報道よりも本質的に悪質だとは思わない。しかし、この表現の言葉の強さや、子どもにもわかりやすい表現で子どもたちに誤った先入観を与えかねない表現であることも考え、ここではこの件を取り上げた。
 いずれにしても、放射能はとにかく恐ろしいのだということをどうにかして広めたいというような意図で、風評被害を煽りに煽るようなこうした表現をするのは、やめるべきだろう。
 本当に現在の放射線のレベルが危険なら、どんな強い表現を用いても、社会への警告をしていくべきであると思う。だが、今回の事故による放射線は、そういうレベルのものでは決してないのである。  こういう表現を用いる際には、くれぐれも、本当の危険性をよく勉強してからにしてもらいたい。


放射能と差別 (3)」に続く!

光太
公開 2012年7月9日

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