リーガル・ハイ (第1シリーズ) (2)



これは(2)です。「リーガル・ハイ (第1シリーズ) (1)」から読むのをおすすめします。



○ 微妙な感じがした回

 個人的に、あまり好きでなかったのは、特に、タワーマンションによって、住民の日照権が侵害される回と、大物政治家の回である。

 タワーマンションの回(第4話)は、反対運動をしている住民たちが、本当はお金ほしさにやっていた、というものであった。
 これも、ある程度重要なことを言っている。反対している住民の中には、お金ほしさの者も実際いる、ということである。普通のドラマでは、反対派を正義として描くことは確かに多いだろう。その意味では、このドラマの視点も重要ではある。古美門は、途中で、タワーマンションを建設している会社があるおかげで助かっている人もいるかもしれないことをほのめかす。実際にも、米軍基地や原発にも通じる話かもしれない。だから、そういう視点も一理あるとは思う。しかし、このドラマの描き方だと、お金目的の住民が大多数、という感じになっている。
 住民代表の弁護士が、最後に「こっちはいつも貧乏だ...。」と言うところに、反対派の目的が、お金だけではないというほのめかしはある。だから、このドラマの描き方は完全に一方的ではない。でも、自分は、日照権などをめぐって地域で裁判をしている人たちを心情的には応援したいと思う。だから、この回をみて、それにしても、ちょっとこの描き方は...、と思った。

 大物政治家の回(第5話)では、秘書を自殺にまで追いやった政治家を、それほど悪い人物として扱ってはいなかった。古美門や黛たちが、この政治家の弁護のためにいろいろ奔走するのは、かなり微妙な感じだった。政治家として、ものすごくすばらしい志や、他に例をみないような改革の実績、弱い人たちを助けるような政策を実現してきた、などの背景があれば、まだ考慮の余地もあるが、そんなことは一切描かれていなかったから、そうではないのだろう。一方で、この政治家は、実際に、日常的に不正なお金を受け取り、古美門たちを含め、日頃から他人を恫喝し、そして、秘書を自殺させた。政治家として、若干優れた人物であったとしても、こんな政治家を弁護するのは、ちょっと共感できない。最後、この政治家は、裁判をやめて自ら罪を認める道を選択するが、それも、別に政治家が自分の行為を反省したわけではなく、かなり微妙であった。
 ちなみに、この政治家のモデルは、事件の内容などからして、小沢一郎であろう。

 微妙な感じを持った回は他にもある。

 初回は、弁護して無罪を勝ち取った被告が、実は、実際に犯人であったかもしれないという内容だった。
 確かに、弁護士が善人そうな被告を完全に信頼して弁護して無罪を勝ち取ったが、実は、その被告は実際には犯罪を犯していた、という例はあるだろう。
 例えば、昔の冤罪事件などで、数十年の時を経て無罪判決が出ることがある。もちろん、無実の被告を長期間牢獄に入れていたのは重大な問題である。やっていない人に刑罰を与えるのは許されることではない。しかし、中には、有罪にするには証拠が不十分だったとしても、本当はどうだったのだろう、と思うことがある。
 このドラマは、そういう部分を敢えて描いたのかもしれない。これは深い問題である。
 だが、このドラマでは、黛弁護士が、被告の無罪を完全に信じていたのに対し、古美門は、その可能性をはじめから知っていた様子である。その可能性を感じていながら、被告を裁判で強引に無罪にする弁護をするのは、自分は同意できない。
 だから、第1話を見て、自分は、かなり微妙な気分になった。

 醤油会社の遺産相続の回(第7話)では、黛弁護士の、性格のよさそうな従姉妹が、実は、全遺産を、策略を使って相続した可能性がある、という内容だった。
 確かに、こういうケースは、この世の中に存在するのかもしれないが、あそこまで善人そうな人を、実は腹黒い人物のように描くのは、ちょっと微妙である。

 いくら、善人のように見える人が、実際は善人でないかもしれない、ということがこのドラマのパターンとはいえ、ちょっとやりすぎじゃないだろうか、とも感じた。

 こうなってくると、善人のように見える人たちは、実はみんな善人じゃないのだ、というのがこのドラマのメッセージみたいになってしまうのだ。
 そして、善人そうに見える人たちは、実は全員、下心があって、善人そうに振る舞うのが得であると思うから戦略としてしたたかにそうしているのだと印象づけかねない。
 だが、善人そうな人で、そういうことをある程度考えている人は確かにいるが、自分の経験上、実際は、善人そうな人は本当に善人である場合がほとんどに思える。


○ 感動した回

 第9話では、村の老人たちを前に、古美門が、裁判を続けるべきだと演説する。
 この場面は、本当に感動的だった。

 自分は、ここで、古美門は、実は正義感のある弁護士だったのだと、ドラマの策略にまんまと引っかかってしまった。
 そして、自分はとても感動し、このドラマで初めて涙が出た。
 でも、実際には、古美門は村人や村のことを思って、裁判を続けようとしたのでも、公害をもたらした企業が許せなくて裁判を続けようとしたのでもなかったのだが...。 (^^;

 なので、最終的には微妙な気分になったが、もし、古美門が本当は正義感に裏打ちされて、この演説をしていたとしたら、この場面は、本当に感動的なシーンであった。

 また、ここでは、また、一つの大きな問題が提起されている。老人たちが、暮らしている地域で、権力なり大企業なりと、結局は持ちつ持たれつ、なあなあでやっているという現実である。老人たちは、古美門の演説を聞いて、裁判を続けることを決意するが、一度は、少しはお金がもらえるから悪い話でもないと言うことで、仙羽化学による和解を受け入れようとする。
 このことは、地域社会における大きな本質の一つを象徴する場面といえる。
 このドラマのようにお金で公害を受け入れる例は現実には少ないとしても、多くの地域で、人々は権力には刃向かわず、迷惑施設などを巡って多少の金銭的な利得を受けたりしながら、生活を営んでいる場合がかなりあるだろう。古美門が、演説で語った内容は、言葉はきついが、本質をついている。こうしたことは、特に地方のかなり多数の人々に当てはまることかもしれないので、メディアなどで殊更に批判されることはあまりない。しかし、これは実は非常に根深く大きな問題であり、敢えて正面からそれを指摘するのは、新鮮であった。


○ 最後に

 いずれにしても、このドラマは、コメディタッチでありながら、普通のドラマでは、一方的に描かれてしまうことの多い重要なことを、ある意味多面的に描いている。

 自分は、もちろん、古美門の人間性は嫌いだが、多くの場合、黛弁護士が人道的立場から意見を言ってくれる。黛弁護士が、多くの場合、見ている人を代弁してくれている。たまには、古美門の言っている内容の方に共感することもあるのだが...。
 いずれにしても、視聴者は、この2人のどちらかの意見に共感することができるようになっている。

 最後に、一つ、謎を挙げておこう。
 黛弁護士が、なぜ、古美門のところでずっと働いているのか、である。
 それに対して強引に理由付けしようと思えば、できなくはないが、ここまで考えの違う古美門のところにとどまって仕事をするのは不自然だろう。
 まあ、二人が一緒にいないと、ドラマが成り立たなくなってしまうので、一緒に働かせないわけにはいかないが、何か、もうちょっと説得力のある理由はつけられないものか...。

 いずれにしても、このドラマの古美門の弁論は、聞いていてかなり楽しい。「結婚できない男」の阿部寛を思い出すが、ある意味では、それ以上であろう。
 また、物事の二面を描くこのドラマは、時として、非常に重要な問題を提示していて、考えるテーマを与えてくれる。

 個人的には、時に過剰な、善人は実は善人ではない、というコンセプトをやめ、また、多面的に物事を見ながらも、正義が結局は勝つストーリーにしてくれたら、このドラマはかなり傑出したドラマになると思う。

 このドラマは、コメディタッチの中にも、建前の社会や人間関係や道徳ではなく、社会の真実や人間の本質に迫るようなテーマを実は含んでいるところがすばらしい。
 これからも、こうした多面的かつ真実や本質に迫る視点でのドラマが増え、複雑な問題を含むいろいろなテーマが取り上げられることを期待したい。


(完)

光太
公開 2014年9月15日

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