学校での体罰 (2)



これは(2)です。「学校での体罰 (1)」から読むのをおすすめします。



○ 自分の見てきた体罰教師 (高校)

 最後は高校である。高校でも、体罰教師はやはり体育教師であった。比較的よく体罰を加える一人と、まれに体罰を加える一人は、両方とも体育教師であった。二人とも、運動部の顧問であった。いずれの教師も、決して人間的に、優れた人物とは言い難かった。短気で、ちょっとしたことでかっとなるような教師たちであった。
 だいたい、こうした体育教師たちは、そもそも大した仕事をしていない。他の一般科目の教師たちは、大学受験を控えた生徒たちに教えなくてはならないため、授業前の準備にも相当な時間をかけ、授業も真剣に行っている。補習授業などもやってくれる。東大進学志望の生徒などは頭もいいから、そういう生徒たちに質問されても困らないように、様々な難しい問題も研究しておく必要がある。とてもたいへんである。だが、体育教師たちは、授業の最初の方で、適当に筋トレの指示をして、その後は、生徒たちにサッカーやバスケットボールなどの試合をやらせて、自分たちはくつろいでいた。冬などは寒いから、試合が終わるまで、体育教官室に戻ってくつろいでいることも多かった。サッカーやバスケットボールのやり方やテクニックなどを特に教えてくれるわけでもない。こんなことが仕事として成り立っていること自体、信じ難いことであった。他の科目の教師たちに比べて、あまりの落差があった。これでお金がもらえるのだから、現代の楽園である。
 それに加えて、体育教師には、生徒たちに対して気ままに暴力を加える教師の割合が、他の科目より圧倒的に多いのである。普段、ほとんど仕事という仕事もせずに日々をだらだら過ごしながら、お金をもらい、ちょっと気に入らないことがあれば、子供を相手に暴力をふるっても、誰からも何もとがめられることもない。こんな身分は他にあまり例を見ないのではないか。


○ 体罰の本質

 自分が実際に見てきた体罰教師たちについて、少し書いてきたが、ここからも、体罰というものが、子供たちを指導する上での、教育上の問題ではないことが容易に想像できる。自分の経験というごく狭い範囲でも理不尽な例がこのように豊富にあるのだから、こうした例はごく一般にあると共に、大阪の桜宮高校の件も含め、もっともっとひどい例は数多くあろう。実際、桜宮高校の事件の後で、いろいろな体罰事例が次々と明るみに出たが、それにしても氷山のほんの一角であろう。そして、一般的にこうした体罰は、部活の試合でミスをした、試合のコートからベンチまで戻る際に走らなかった、あいさつの仕方が悪い、など、実に理不尽な理由で行われている例が非常に多い。

 (なお、この文章中では、「体罰」という言葉を使っているが、桜宮高校の例も含めて、これらは、何かに対する教育的な罰ではなく、「子供に対する暴行・虐待」という言葉が適切である。しかし、「体罰」とされているものが、実はそうしたものであるということを明確に示すため、この文章では、敢えて「体罰」という言葉を使っている。)

 この「体罰」という問題は、子供たちがどうしても言うことを聞かない場合に、身体的に懲罰を与えることが許されるかどうか、といった高尚な問題ではないのだ。体罰をする教師は、熱血で指導に熱心だから、認めてもいいのではないか、とかいった問題ではないのだ。

 体罰教師というものは、学校にきている子供を、自分の気ままな暴力や虐待のターゲットにしているのである。そして、体罰教師には、一般には、人間的にも粗暴で未熟な、問題教師が多いのである。そもそも教師としての仕事もしておらず、教師としての価値もあまりないような人間たちが、日常的に子供たちを虐待しているのが、実際の姿により近いであろう。彼らは、倫理的に許されないことをする者たちに、冷静に愛情を持って罰を与えているのではない。ただ単に、気に入らないことがあるといらいらして、感情にまかせて、暴力を振るうだけである。体罰教師たちは、ちょっとしたことにかっとしたり、感情的になって、暴力を振るうだけである。また、そうやって暴力を振るうことによって、生徒を従順にさせ、支配しようとしているだけである。ほとんどの体罰は、愛のムチなどでは決してない。そういう粗暴で短気な教師たちが、自分たちが行っている気ままな暴行を愛のムチなどと言うのは、厚かましいにもほどがある。
 そして、そうであっても、子供たちは、それに異議申し立てすることは難しい。教師と子供は、上下関係がはっきりしており、また、進学を控えた子供たちは、下手に教師に異議を唱えたり批判したりすれば、内申点などで不利な扱いをされかねない。そもそも人間的に未熟な体罰教師たちは、体罰を批判などされたら、内申点などで仕返ししようとするような、人間的にも低俗な教師たちであることは容易に想像できる。そういうこともあって、子供たちは、学校内で教師による理不尽な暴行が行われていても、それに意義を申し立てることは難しいのである。
 そういう現実をまずしっかりと把握しないと、この問題の議論は、的外れなものになる。

 体罰の多くが、こうしたものであるという現実をふまえれば、体罰は完全に禁止し、できうるなら、こうした粗暴な質の悪い教師たちを学校から排除することを考えるべきである。


○ 体罰が子どもに与える影響

 それから、体罰が、子供の精神に与える影響も考えておかなくてはならない。忘れ物をしたからといって、体罰をする、ということについて考える。子供の中には、何度言っても忘れ物をする子供がいる。一般に、そうした子供は、体罰をされても、また忘れ物をする。そして、こういう子供たちは、体罰をされることに慣れている傾向もあるようである。しかし、中には、非常にまじめで、学校に行く前日にカバンの中を何度もチェックするような神経質な子供たちもいる。しかし、こうした子供たちも、時には、忘れ物をするなどのミスをしてしまうこともある。そうしたとき、はたきの柄で太ももの裏側をミミズ腫れさせられるのは、こうした子供たちには大きな恐怖である。心理学的には、同じ温度でも、人によって、寒いと感じたり、暑いと感じたりする感じ方は全く異なる。また、物理的に同じ刺激を与えても、子供によって、痛みの度合いは大きく異なるし、それに対する恐怖の度合いも全く異なるのである。体罰をするような粗暴な教師たちは、だいたいそうした痛みに鈍感なタイプだろうから、子供たちが、やられる体罰に対して、どれほど痛みや恐怖を感じるかなど理解もできないだろう。だが、こうした体罰に非常に大きな恐怖を感じ、怯える子供もたくさんいるのである。子供によりそうした感じ方が全く異なるなどと言うのは、教育学の基礎であり、そんなことも理解していないような教師たちに、教師の資格はないだろう。


学校での体罰 (3)」に続く!

光太
公開 2013年2月17日

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