政治家たちの批判のための批判 (3)



これは(3)です。政治家たちの批判のための批判 (1)から読むのをおすすめします。



○ 失言問題

 また、失言問題というものが時々発生する。この中にも、批判のための批判が見受けられる。

 例えば、2010年11月、柳田稔法務大臣が広島市での国政報告会で、「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。 個別の事案についてはお答えを差し控えますと、これが良いんです。 わからなかったらこれを言う。で、後は法と証拠に基づいて適切にやっております。この二つなんです。まあ、何回使ったことか」と発言し、野党から追及を受け、結局辞任した。
 確かに、軽率と言えば軽率なのだが、これは明らかに冗談である。真剣にそう言ったのなら大問題だが、真剣にそう思っているなら、そんなことわざわざ国政報告会で公言することはないだろう。
 こんなことをいちいち言葉通り捉えて、辞任させるような事態だとは思えない。

 「失言」の中には、もちろん、追及すべきものもある。
 例えば、松本龍防災担当大臣は、就任早々の2011年7月、岩手県知事に「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない。」、宮城県知事に、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ」などと発言し、辞任に追い込まれた。発言内容はともかくとして、知事たちに対するあの高圧的な態度は当然批判されてしかるべきであろう。

 また、石原慎太郎には、追及すべき「失言」が非常に多い。
 「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。」これは、伝聞形を取っているが、こう言ったとされている松井孝典はそんなことは言っていないし、これが石原慎太郎の心からの発言であることは明らかで、こうしたことは、追及されてしかるべきだろう。また、外務省のアジア大洋州局長であった田中均氏は、2002年当時、北朝鮮との交渉にあたっていたが、田中氏の自宅に爆弾がしかけられたとき、石原慎太郎は、「爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ。」と発言した。テロ行為を擁護するかのようなこうした発言は、当然厳しく批判されるべきである。その他にも、差別発言や軍国主義讃美的な発言など、石原慎太郎は、発言を追及されても謝ることもなく、これらは本人の本心であるから、これらの発言はもっともっと批判されてもよいだろう。

 だが、例えば、2007年に柳澤伯夫厚生労働大臣が講演で行った「産む機械」発言への批判などは、明らかに批判のための批判だろう。この部分だけ取り出すと、柳澤大臣が、まるで石原慎太郎のように女性蔑視のひどい人物に思えるかもしれないが、これは、少子化の現状をわかりやすくするために、説明のために用いただけであり、講演における説明の中でも、「まあ、機械って言ってごめんなさいね」ときちんと断っている。発言全体をここで取り上げる余裕はないが、発言全体を見れば、柳澤大臣のこの時の発言を女性蔑視ととらえるのは全く誤りである。そして、本人も不適切な表現であったことを何度も陳謝している。繰り返すが、柳澤大臣が女性蔑視の思想をもった人物なら、大いに批判すればよい。だが、そうではないのだ。こんなことをいつまでも追求しまくるのは、批判のための批判であり、全く建設的ではない。


○ 我々自身が変わらなくては

 さて、いろいろな例を挙げて、日本の政治家たちの批判のための批判について見てきた。
 残念なことに、このバカバカしい性質は、日本のほぼ全政党に共通しているように見受けられる。

 今の日本はかなり危機的な状態にある。「国の借金(執筆中)」「少子化」などで論じているから、詳しくはそちらを読んでほしい。
 こんなばかげたことをやっているうちに、日本は、経済的に破綻するだろう。

 もしかしたら、日本しか見ないでいると、こういう批判のための批判をしあっているのが、ふつうの政治の姿だと誤解する人もいるかもしれない。

 だが、例えば、アメリカの国会を見てほしい。

 大統領の演説に対し、評価すべき発言、感動するような内容があったら、与党の議員ばかりでなく、野党の議員も立ち上がって拍手をするのだ。

 日本では、所信表明演説などで総理大臣が仮に非常にいいこと、または野党の意見と同じ意見を言っても、野党は賛同の拍手などしないばかりか、野次をとばして喜んでいる。ばかばかしくて見ていられない。


 だが、そういう批判をするほうが、支持率が上がったりするのだから、政治家は、そういうばかばかしい批判をするのをやめられない。

 この責任は、マスコミと国民にあるといえよう。

 マスコミは、そういう無意味な批判のための批判に対してあまり非難をしない。そればかりか、そうした発言はニュースになるため、テレビや新聞などで、うれしがって積極的に取り上げる。それを見た国民は、なんだか威勢のいいことを言っているそうした政治家をおもしろがって支持する。

 批判のための批判をするような政治家は、威勢よく見えておもしろくても、国がやっていかなければならないことを遅らせるだけで、国に非常に悪い影響を与えるだけなのである。国民は、そうした政治家たちは支持しないという、確固とした意思を持つべきであろう。

 マスコミは、視聴者にこびて、「国民は一流だが政治は三流」などと言っている。しかし、この批評では、気兼ねせずに本当の問題を指摘する。政治が三流ということは、我々国民が三流ということである。なぜなら、国民がそうした政治家を選んでいるし、許しているのである。意味のない批判をしあって喜んでいる政治家や、進めるべきことを進めない政治家をおもしろがって支持する国民、そして、それを視聴率目的で大々的に取り上げ、そうした無意味な政治家の行動を大して批判もしないマスコミに苦情も言わない国民にこそ責任があるのだ。
 そして、総理大臣が1年でコロコロ変わるのは恥ずかしい、政治は何をやっているんだ、と文句を言う人は多い。だが、誰がそうしているのか、よく考えたほうがいい。内閣ができた当初は、内閣の支持率が高い。だが、マスコミが、内閣に対する文句ばかり報道し、それを見た国民が、それを真に受けて、すぐに内閣を支持しないようになる。そうして、みるみるうちに世論調査の支持率は落ち、半年もすれば、内閣は低支持率にあえぐようになり、野党はそれに乗じて協力をしなくなり、内閣は立ち往生し、首相を変えるしかなくなる。政策には、長い時間をかけないと立案・実施できないものも多い。1年で交代するのでは、何もできないまま、次々と次の内閣に代わるだけの話である。この世界に恥ずかしい状態、政策が実行できない状態を作っているのは誰なのか、ちゃんと考えたほうがいい。

 政治家も、マスコミも、国民も、こんなことをして喜んでいる余裕は今の日本には全くないのだが...。

(完)

光太
公開 2011年9月13日

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