Planet of the Apes/猿の惑星 (2)



これは(2)です。Planet of the Apes/猿の惑星 (1)から読むのをおすすめします。



○ 主人公たちの不自然な行動

 さて、主人公たちが、とらえられている場所から逃げ出すシーンがある。
 ところが、この時、主人公たちは、猿たちから隠れようともせず、わざわざ、猿たちの目につく場所を通って逃げている。隠れようと思っている様子は一切ない。そんなことをすれば、すぐに見つかって捕らえられてしまう。これほどバカげた行動があろうか。
 なぜ、主人公たちは、隠れながら逃げるという、下等な生物でも一般的に行っている、きわめて原始的な行動すらとらないのであろうか。これほど知能の低い人間も珍しい。こんなことでは、いくらなんでもそれくらいのことは思いつくであろう猿たちに勝てるはずはないではないか。
 見ているものは、主人公たちのこの意味不明な行動を見て、混乱に陥り、映画への集中力がなくなることだろう。

 そして、川を渡るシーンでは、猿たちが野営をして見張っている場所をわざわざ突っ切って行く。そんなに猿たちと戦闘をしたいのだろうか。なぜ、この場所を突っ切らなくてはならないかについて、映画の中で少しだけ言及されていたが、その説明は要領を得ず、その意味が自分にはほとんどわからなかった。
 中学生の不良グループではないのだから、好き好んでけんかをする必要もないと思うのだが...。あんなふうに、わざわざこれみよがしに敵の猿たちに自分たちの存在を大々的に気づかせ、戦闘をしようとする理由がわからない。これでは、主人公たちが、これは映画であることを知っていて、観客のためにわざわざ見せ場を作っているとしか思えないのである。それならそうと、観客に向かって、「みなさん、今から、みなさんのために、わざわざ戦闘をしてあげますから、よく見ていてくださいねー!別に猿たちのいない安全なところを通ってもいいんですが、それじゃあ、みなさんおもしろくないでしょう?ここは見せ場ですよ!」などと呼びかければいい。

 最終盤の人間と猿の軍勢の戦いも不自然である。確かに、宇宙船に残っている燃料を使って爆発を起こせば、猿たちにいくらかの傷を負わせられるかもしれない。だが、爆発で打撃を与えられたのは猿たちの軍勢のうちのごく一部である。どう考えたって、全軍勢が都合よく、爆発に巻き込まれてくれるとは思えない。無傷の猿たちもたくさん(というよりはほとんどか?)残ることは容易に予想できる。そして、人間たちの数と猿たちの数を比べれば、猿たちの方が圧倒的に多いように見えた。また、猿と人間の力を比べると、猿たちの方が腕力も脚力も圧倒的に上に見える。とするなら、こんな戦いをしても、人間たちは簡単に負けて終わるはずである。
 この爆発作戦を考えついたとき、主人公は、あたかもすばらしいことを思いついたかのようにふるまっていた。だが、あの作戦が何を目的としていたのかも、勝算があったのかもわからない。大半の猿たちと結局はまともに戦わなければならないこのやり方が、効果的なやり方だとは到底思われないのだが...。

 そして、小さな宇宙船が降りてくるシーンで、全員がいきなり戦闘をぱたっとやめるのもおかしい。真剣に戦争をしている最中に、光る物体が空から降りてきても、戦闘をやめるはずがない。もちろん驚くには違いないが、本当に真剣に戦っているなら、そこでいきなり戦闘をやめたりはしないだろう。
 仮に、警官が窃盗犯を捕まえようと追いかけているとしよう。窃盗犯は必死に逃げている。警官は真剣に追いかけている。ここで、空に強烈な光が見えたとして、この窃盗犯は、立ち止まるだろうか?警官は立ち止まるだろうか? いや、そんなことはない。窃盗犯は逃げ続け、警官は追いかけ続けるのである。しかも、この映画の状況では、窃盗といったような生やさしい状況ではなく、殺すか殺されるかの、命のかかった、極度に緊迫した状況なのである。そんな中で、空に光が見えたからといって、戦闘を忘れて立ち尽くすのは、到底ありえることではないし、そんなに生存本能のない種は、すぐに絶滅して終わりだろう。


○ 最後の展開

 多くの人が混乱するのが、一番最後の展開であろう。

 最後、主人公は、地球に戻る。
 そこで、リンカーンのような顔をしたセード将軍の像に出会うわけである。
 だが、これは、どういう整合性があるのか意味不明である。時代は、宇宙船の時刻表示では、2029年となっている。宇宙船の時計が、その時代の時刻をどうして正確に示すことができるのかは理解しがたいが(主人公が歳を取っていないことからして宇宙船の内部は時が進んだり戻ったりしていないはず。だったら、宇宙船内の時計だって、時間が進んだり戻ったりしていないと考えるのが妥当な考え方だろう。)、そこは受け入れるとしよう。
 主人公のもともといた2029年には、もちろん、そういう歴史はなかった。これについては、ネット上で一つの説明を読んだ。あの惑星で、閉じこめられたはずのセード将軍が、その後で逃げ出して再び権力を掌握し、あの猿の惑星で、墜落していた宇宙船を分析して、自分たちも宇宙船を製造し、主人公が入っていったのと同じ宇宙空間の雲の中に入っていって、過去の地球に到着し、人間を支配した、という解釈である。この雲は、時間的に遅れて突入するほど、行った先ではより過去に運ばれてしまう性質がある、という補足説明がなされていた。これはよく考えられた説明であると思う。だが、あの猿たちにそれが可能なのか、といった疑問が出てくる。猿たちの惑星の、あの時点から何千年も後なら、猿たちがそうした技術を発展させることも可能かもしれないが、そのときは、セード将軍は死んでいるはずだから、セード将軍が生きているうちとなると、そんなに短期間で宇宙船を作れるとは考えにくいのだが...。

 また、別の説明としては、主人公が、無数に存在するパラレルワールドのうち、こういう歴史を持った世界にワープした、ということが考えられる。だが、無限の数のパラレルワールドを持ち出してしまうと、もはやどんな世界も可能になってしまい、ミジンコの支配する世界や、食虫植物の支配する世界など、なんでもありになってしまう。それなら、どのような状態の主人公も無数に存在することになり、もはや、戦いに勝とうが負けようが、何の意味もなくなってくる。これは、映画を作る手法としては、反則技だろう。
 パラレルワールドはいろんな映画に出てくるが、これを持ち出すと、上に述べたのと同じ問題が生じてきてしまい、映画が無意味になってしまうことを、映画製作者たちはきちんと認識しておくべきだろう。


○ アメリカの現代社会との関係

 この映画で、個人的に非常におもしろいと思ったのは、猿たちが、食事の前に、神に祈るシーンである。食事の時に、食べ物に手をつけようとしていた猿たちに対し、武闘的な猿たちが、「神への祈りがまだだ。」と制止し、食前の神への祈りの言葉を述べる点である。
 神という概念は、もちろん文化的なものである(言うまでもないことだが、神は存在しない。せっかくなので、「神はいない」も読んでほしい。)。だが、人間社会ではどんなコミュニティにもこの概念が存在するところから考えても、他の惑星における文明でも、同様の概念を発達させる可能性は高いだろう。つまり、神という概念は、生物にとってそれだけ思いつきやすい、単純な概念だと言えるだろう。だから、この神への祈りは、猿たちの文化を示すエピソードとして妥当なものであると思うが、ここで描かれているのは、明らかにアメリカのキリスト教保守派たちである。
 現実のアメリカの武闘派、つまり軍や軍事力を好む人々は、キリスト教的保守主義に凝り固まっている。ここで描かれているのは、明らかにそのパロディであろう。知的な猿たちは、ばかばかしいという表情を見せながらも、渋々祈りに従っている様子がおもしろい。アメリカでも、本当に知的な人々は、神の概念などばかばかしいと思っているだろうが、はっきりとそう表明すると、アメリカの大衆から嫌われたり攻撃を受けたりするため、そんなことはあまり公言できない。そういった状況のパロディとしてこれが描かれていたのはおもしろい。
 だが、さらにおもしろいのは、キリスト教が否定している進化のまさに元になっている猿たちが、人間のような知能を持っていて、神に祈る点である。現代社会のキリスト教保守派たちは、誇り高き人間が、猿などから進化したはずはないと思っている。だから、進化を否定するこうしたキリスト教保守派たちからすれば、この映画のこのシーンは、彼らに対する最大限の冒涜であろう。個人的には、進化を否定するような非科学的で愚かな人間たちをギャフンと言わせるこのシーンに拍手喝采である。

 もう一つ、日本人には信じられないことだが、アメリカでは、銃規制に強固に反対する、頭の固い保守派がいる。そして、銃規制に強力に反対する団体、全米ライフル協会の会長が、オリジナルの猿の惑星の主人公を演じたチャールトン・ヘストンである。今回の映画でも、セード将軍の父を演じていた。
 この映画では、銃を、人間の文明の象徴として描いていた。チャールトン・ヘストン演じる父親が、息子のセードに割らせた入れ物の中には、人間の文明を象徴するものとして銃が入っていた。
 このシーンが、チャールトン・ヘストンの主張に沿って、銃が人類にとって、本当に文明の象徴たるべき輝かしいものとして描かれているのか、それとも、人間の文明を象徴するものが銃ということを、大いなる皮肉として描いているのかは、自分には判断がつかなかった。後者だとは思うのだが...。


○ まとめ

 以上、この映画の変な点を中心に述べてきた。

 オリジナルの猿の惑星は、あの何とも言えない不気味な世界観や、ラストの驚きが非常に秀逸な映画であった。しかし、このリメイク版では、そのストーリーを無理に変えようとして、変なところの多いものになってしまっている。
 オリジナルの猿の惑星を、ストーリーは全く同じで、映像技術だけ最新のものを使って、正確に再現するというほうが、はるかによかったのではないかとも思う。

 だが、質の高いストーリーならば、新たなストーリーに挑戦する価値はもちろんある。何もオリジナル版に固着することはない。新しい驚きをもたらしてくれるなら、それはそれで大歓迎である。しかし、矛盾だらけのストーリーにしてまうのは、絶対にだめである。そんなものを作るくらいなら、作らない方がはるかにいい。明らかに変なストーリー展開は、映画をちゃんと真剣に作ろうと思えば、簡単に避けることができるはずである。映画を作る人たちはプロなのだから、それくらいは考えてほしい。

 以上、変な部分をいろいろ述べてきたが、やはり猿たちが支配する社会というのは興味深いし、映像的にはそれなりにリアルに再現されていて、おもしろかったため、点数は比較的高くした。

(完)

光太
公開 2012年2月5日

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光太の映画批評・ドラマ評・書評・社会評論