神はいない


 今回は、「神」という大きな問題を、正面から論じてみたい。
 これは大きな問題なので、本当は、いつかじっくりと文章を練ってから論じようと考えていたが、東日本大震災が起こり、書かずにはいられない気分になったので、早めに文章にすることにした。

 「神」という存在を信じている人は多い。日本では、熱心に信じている人は比較的少なく、全く信じていない人もそれなりにいるだろうが、海外では、その割合は、ほとんど9割以上のようである。先進国たりとも、キリスト教信者の割合が多数を占める国が多く、他の宗教も含めた、神を信じている人の割合は、9割以上であろう。海外には、何の神も信じていないと聞くと、まるで悪魔に魂を売ったのかというような言い方をする人も少なくないようである。

 だが、結論から言って、神は、明らかに、人間の勝手な空想の産物であろう。

 神が人間の前に出てきたことなど、これまで一度もない。

 これまでも、世界で多くの悲惨な事件や事故が起きてきた。
 そして、東日本大震災の地震・津波もその一つである。
 こういうとき、神はいないのだということを改めて実感する。
 もし神がいるとしたら、こんなことを起こすはずがない、と思う。

 AERAの2011年の4/11号に、写真家の藤原新也氏が、東日本大震災後に三陸海岸沿いを歩いて撮った写真と文が載っていた。この文章では、藤原氏はまさにこのことを述べている。

 藤原氏の文章からいくつかの文を引用する。

「だがこのたび、神は人を殺した。土地を殺し、家を殺し、たくさんの善良の民やいたいけな子供たちや無心の犬や猫をもっとも残酷な方法で殺した...」

「私は水責め火責めの地獄のなかで完膚なきまでに残酷な方法で殺され、破壊し尽くされた三陸の延々たる屍土の上に立ち、人間の歴史の中で築かれた神の存在をいま疑う。」

「神はただのハリボテであり、もともとそこに神という存在そのものがなかっただけの話なのだ。」

 写真についての評価は自分にはよくわからないが、この文章は、非常に本質的なところをついており、まさに、自分がこれまで思っていたことを、表現してくれていた。

 東日本大震災で大津波に飲み込まれ、流されていった人たち、がれきの下で火に焼かれて亡くなった人たち、救出を待ちながら、冷たい水の中で寒さに凍えて亡くなっていった人たち、...。
 この中には、子供たちも、赤ちゃんもいる。
 他の人を助けようとして亡くなった人、避難の誘導をしていて亡くなった人、役場で、最後まで避難の放送をし、自分自身は逃げることができずに津波にのみこまれた若い職員もいる...。
 残された人々の悲しみも大きい。学校に行っていた子供を失った母親、結婚するはずだった婚約者を失った男性、妻と一緒に長年生きてきて、妻を失った老人...。

 もし、神がいるなら、なぜ神はそんなことをしたのだろうか。

 怒りを感じる。

 津波の後、全てを失った人がいる。家を失った人、船を失った漁師、...。神がいるなら、何の罪もないそうした人々に、宝の山でも出してもらいたい。

 神が人類の前に現れたことは、これまでもなかった。ただ、神話や古文書という創作物があっただけである。

 それを、人々はありがたく信じてきた。

 それにはもちろん理由がある。
 過去、人々は今よりはるかに貧困で、寒い中、暖房もなく暮らし、権力者から搾取され、医学も発達していないから、人々は若くして死んでいき、毎日の労働も過酷だった。そんな中、人々は生きる意味を宗教によって与えられなければ生きていけず、また、死後の世界で楽しく暮らせることを信じなければ、とてもではないが、生きている間の苦しさに耐えられなかったことだろう。
 そして、そうした貧困の中では、人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけない、といったことも、神によって見られているからだという、外からの道徳を与えられなければ、人々は自分たちを律することはできなかったであろう。
 そういう時代に、「神」という「装置」を発明したことは、個人にとっても、社会にとっても、それなりに意味があったのだと思う。

 だが、人類自身が文明を発達させたことで、人類は過酷な重労働から解放され、快適に暮らせるようになり、医療も発達したことで多くの命が救われるようになり、民主主義という人々を尊重する社会体制が作り上げられたことでしいたげられる人々も少なくなってきた。
 現在、神という存在は、人類にとってもう必要ない。

 今、我々は、はっきりと気づくべき時ではないのか。神などいない。これまでもいなかった。人類は、壮大な嘘を、ずっと信じてきたのである。

 神に頼ってもなにもならない。いないのだから。いないものに無意味な期待をするのではなく、いかに、人類が、我々自身の力で、協力して、生きていくのかを真摯に考えていくべきである。


 信教の自由は、保障されるべきである。信教の自由は、社会において、最も大切なものの一つとして、守っていくべきであることは当然である。誰かが、どんな宗教を信じようと、他の人に迷惑をかけるようなものでない限りは、その自由は、守っていかなくてはならない。それを許さないような社会は絶対によくない 。
 しかし、どの宗教を信じるのも自由だからと言って、その誤りを批判してはいけないということにはならない。「信じる・信じないは人それぞれ。他人がとやかくいうべきことではない。」などとものわかりがよさそうなことを言っているだけでは、社会はそれ以上、よくならないと思う。
 真実を知らせる努力、広める努力は常にしていくべきであると思う。

 神を信じる全ての人々に、考え直してほしいと思う。神は、本当はいないと、実は心の奥底ではわかっているのではないか?神がいることを疑いつつも、神がいるということにしているのではないか?
 神がいるなら、どうして、こんなにひどいことをするのか?「これは、神が与えた試練だ」という人もいるかもしれない。しかし、試練のために、無実の子供たちや、他の人のためにがんばった人たちを、ひどいやり方で殺してもいいのだろうか?そんなことをする神なら、人間は、そんな神を軽蔑するべきであると思う。そして、もはやそんな神の教えに従う必要など全くないと思う。
 神を信じる人たちに、答えてほしい。神はどうしてこんなことをしたのか?そして、どうして、何の救いの手もさしのべないのであろうか?

 もちろん、これは、今回の東日本大震災に限ったことではない。世界の多くの国々で、無実の人たちが、戦争に巻き込まれて殺されている。悲惨な事件に巻き込まれて殺されている。1985年の日航機墜落事故では、520人もの無実の人たちが亡くなった。2001年9月11日のアメリカの同時多発のテロでも、多くの無実の人たちが亡くなった。亡くなった人もとてもかわいそうだが、残された遺族の悲しみ、その後の生活の苦しみは、想像を絶するものがある。そればかりではない。ひどい児童虐待によって死に追いやられる子どもたちがいる。激しいいじめにあい、自殺においこまれる小学生・中学生もいる。そういった無実の人たち、子供たちに、いったい何の罪があるのか?

 神は、どうして、こんなことをしたのか?

 でも、おそらく、神を信じる人たちは、この問いに、答えることはできないだろう。なぜなら、神はいないからである。神がいるとすれば、これは決して説明できないだろう。

 それから、普段は神など信じてもいないのに、受験や初詣の時には、神社に行って願い事をする、少なくない数の日本人にも、自らに問いなおしてほしいと思う。仮に神がいるとして、普段はそれをろくに信じておらず、神に対して何の奉仕もしていないのに、受験や年の始めだけ、自分のところにやってきて、都合のいいことをお願いする人々に、神は恩恵を授けるだろうか?そういう人たちを受験に受からせ、願い事を叶えてあげるだろうか?
 もし、自分が神なら、そんなことはしない。神を信じていなくとも、神に依存することなく、自分自身の力でどうにかしようとがんばっている人たちの方に、むしろ恩恵を与えるだろう。ご都合主義の人々に恩恵を与えることはない。むしろ、試練を与える。

 だが、ここで、これまで、ご都合主義的に神頼みをしてきたことを、神は怒っているかもしれないと不安に陥る必要はない。
 なぜなら、神などいないからである。

 我々人類は、神など、そもそもいなかったことを、そろそろしっかりと確認し、そんな嘘の存在になど頼ることなく、我々自身の手で、この世界をよいものにしていくという、確固とした決意をしてはどうだろうか。

(完)

光太
公開 2011年4月20日

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