罪と罰 (2)



これは(2)です。罪と罰 (1)から読むのをおすすめします。



○崇高な目的のためには人を殺してよいか?

 しかし、もし、仮に文学として、非凡な人間が大きな目的のために凡人を殺すというところを突き詰めるのであれば、それは非常に価値ある試みだと思う。

 だが、それなら、もっとまともな舞台設定を用意する必要がある。

 例えば、ある飛行機に500人の乗客が乗っているとする。この飛行機が、ハイジャックされ、核兵器庫に墜落しようとしている。この核兵器庫では、普段はもちろん、航空機の墜落くらいではびくともしない強固な防護壁の中に核兵器がおかれているが、たまたまある事故が起きたことから、核兵器を普段より無防備な場所に配置してある。周りには、300万人の人が住んでおり、その核兵器庫が核爆発すれば多くの死者が出る。墜落までの時間は20分しかなく、核兵器を、工事中の強固な防護壁に移動させる時間はない。もちろん300万人を避難させることもできない。この飛行機がテロリストの目的通り、保管されている百発あまりの核兵器に墜落する確率は30%と試算された。500人の乗った飛行機を戦闘機で撃墜すれば、500人は亡くなるが、300万人の人々が確実に守られる。このとき、その飛行機の撃墜命令を下せるかどうか。

 また、例えば、アメリカは、日本に原爆を落とした理由を、次のように説明している。「もし、原爆を落とさなかったら、日本が戦争を続け、そのせいで、もっと多くの人命が失われていただろう。だから、原爆で人が亡くなったとしても、それは結局、多くの命を助けることになったのだ。」この原爆の事例で、アメリカの言うことに十分な正当性があるかどうかは別として、どこかの独裁国が戦争を始め、その国は、自国の国民も虐げ、他の国を侵略し、他の国の国民を残虐な仕方で実際に大量に殺しているとする。そして、原爆を落とせば、その国が確実に戦争をやめることがわかっているとする。このとき、戦争を終わらせてそれ以上の犠牲を防ぐため、原爆を落とし、無実の何万人かを殺すという決断ができるかどうか。

 他にもいろいろな設定がありうる。ある医学研究所で、非常に強力で人の命を確実に奪う、蔓延力の強いウィルスが発生し、その研究所の職員100人が感染した。ウィルスの潜伏期間は10年なので、それでも10年間は彼らは生きる。現在は外部から完全遮蔽された場所に彼らはいるが、この気密はいつ崩れるかわからない。そして、気密を完全にすることは不可能であるとする。このウィルスがひとたび屋外に放出されれば、地球人全体が即座に感染する。その場合でも、10年間のうちに、治療薬が開発される可能性はあるが、その可能性は70%にとどまり、それが開発できない可能性が30%もあると推定されている。その開発に失敗すれば、10年後に地球人全体が確実に滅び去る。このとき、その研究所の職員100人を、ウイルスと共に即座に焼却して殺害する決断ができるかどうか。

 こういうことを書くと、ドストエフスキーの時代には、そんなことは設定できなかったんだから、しょうがないじゃないか、というかもしれない。
 だが、それは浅はかな反論にすぎる。ただただ思考停止して、そんなことを言う前にもうちょっと考えてほしい。

 上の例は、よりわかりやすくするためにちょっと考えてみたものであって、普通の人たちの命を犠牲にするような例は、ドストエフスキーの時代でもいくらでも設定できただろう。

 例えば、ある国王は、非常に乱暴で、周囲の多くの国々に攻めいっては、略奪・殺戮の限りを繰り返していた。この国王は非常に乱暴だが、その国の人々は国王に従っているだけで、普通の人々である。この国の略奪・殺戮を止めるため、その国の人々を皆殺しまではいかなくても、その国が再起不能になる程度まで、大量に殺していいかどうか、などの例を考えてもよいだろう。

 例えば、以上に挙げたような舞台設定をすれば、大目的のために、普通の人たちの命を犠牲にしてよいかどうかという大きな問題を正面から描くことができる。こうした場合の、国の指導者たちの深い苦悩を描けば、すぐれた文学作品になることだろう。


○何の意味もなく人を殺した主人公

 この「罪と罰」の設定が、深い問題を提起できていないのは、この主人公の殺人は、大きな目的のためでもなんでもないことである。何の必要もないのに、ただ老婆を殺している。

 この理由の一つは、主人公を精神的に病んだ状態として描いてしまったことである。
 少なくとも、この問題を真摯に突き詰めたければ、主人公を正常な人間として描き、本当に社会にとって有用で価値が高く、かつ、本当にどうしようもないほど貧困で、お金を手に入れる手段が、人を殺す以外に全く考えられないような状態に設定する必要があったと思う。上で挙げたような例は、本当に誰でも判断に迷うのに対し、こちらは、現代的価値観から言えば、それでも人を殺してはいけない、となるであろうが、そういう前提を取り払ってこの問題を突き詰めるのは意味があることである。
 そのように設定するのがだめなら、せめて、政治的な過激派、宗教的な過激派とすればまだよかったと思う。彼らには信念があり、それに基づいた殺人なら、彼らなりの大きな目的があるだろう。自分はいかなる宗教も真実だとは思わないが、もし、例えば、狂信者の信じる宗教が本当に真実なら、その神の教えに従わないものは実際に悪魔の手先のようなものだということになるのだから、信じない人々を殺すことは真に正当ということになる。だから、そういった狂信的な人たちの殺人を描けば、それでも、何らかの考えさせる点は出てくるだろうと思う。
 だが、この主人公には、大きな目的などなく、また、理知的に判断してこの殺人をしているのでもない。
 これでは、せっかくの大きな哲学的命題に正面から向き合えない。大きな目的と殺人の間の葛藤に悩むこともない。主人公の精神が病んでいて、ハプニング的要素も多少加わって、老婆、リザヴェータを殺してしまっただけのことである。

 主人公の犯したこの殺人には、正当性など全くなく、こんな主人公は、ただ、投獄されればいいだけの話である。

 もし、この重要な哲学的命題に迫るつもりだったなら、主人公を、大きな目的を持つ、正常な人間として描くべきだし、そうすればはるかによい作品になったと思う。

罪と罰 (3)に続く!

光太
公開 2011年8月6日

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