罪と罰 (1)


「罪と罰」   ドストエフスキー (著), 工藤精一郎 (訳) (新潮文庫) 1866年

評価: 39点


○世界の名作??

 世界の名作とされている文学がある。

 これも間違いなくその一つである。

 こうした世界の名作とされているものは、日本の名作とされている文学と併せて、学校などでは、夏休みの推薦図書として薦められたりする。そして、まじめな生徒たちは、そういうものをまじめに選び、全くおもしろいと思わなかったとしても、忍耐強くそれを読んで感想文を提出したりしている。

 しかし、そういう名作とされるものを読んでみても、自分には、それほどの価値があるとは思えないことが多い。何も、最初からつまらないだろうと思って読んでいるのではない。例えば、夏目漱石の「こころ」は、非常に優れたおもしろい小説だと思う。自分は、ある程度の期待をして、そういった小説を読み始めるのである。だが、読んでみて、価値がないと思うものがかなり多い、というか、それがほとんどなのである。この小説にしてもそうだった。こんなものを読むのに時間を使うくらいなら、日々のテレビニュースやワイドショーを見ていた方が、はるかに考えることも多いだろうとも思った。

 どうして、学校はこんな価値のないものを推薦して子どもや生徒に読ませようとするのだろうか。そもそも、そういうものを推薦図書として選ぶ教師たちは、こうしたものが本当に読む価値があるものかどうか、自ら読み、しっかりと吟味し、まともに判断したのだろうか?
 学校を信じて、こういうものを読むことに決めてしまった生徒たちが気の毒である。

 また、こういった名作には、評論家による解説がたくさんある。だが、そういった解説を読むと、深読みをして、作者は全くそう考えていないようなことまで解釈を与えて、あたかもその小説が非常に高尚な問いかけをしているかのように書いてあることも多い。が、本当に作者がそういう意図で文章を書き、そういう思いを込めているのだろうか...。

 これは声を大にして言いたいが、名作とされている文学であっても、価値の高いものであるという前提に立つのではなく、白紙の気持ちで読んでいくことが重要である。
 そして、小説の本質的な価値や意義を、自分でしっかりと考察しながら読む必要がある。


○「罪と罰」の評価に値する点

 前置きが長くなったが、「罪と罰」について論じていこう。

 まず、個人的に評価できると思った点を述べたい。それは、主人公ラスコーリニコフとポルフィーリィやスヴィドリガイロフ、ルージンなどとの会話である。これらの会話は、高度に知的で、非常におもしろい。
 日本人には、このように、論理的整合性をきちっと考えて、知的な言葉を使って話すような習慣はあまりないが、論理を大事にする欧米ではこういう会話にも相当の価値がおかれている。自分には、これらの会話の部分は非常におもしろかった。日本では、特に、会話における論理性がかなり軽んじられている。そして、論理的な話し方をする人間は、「理屈っぽい」などという不名誉な称号を与えられ、変わり者扱いされて、忌み嫌われることになる。これは非常に不幸なことである。
 いずれにしても、この点に関しては、この作品は優れていると言っていいだろう。


○「罪と罰」にふさわしい内容とは?

 だが、この作品は、上で書いた点以外は納得いかない点ばかりが多かった。では、そうした点について述べていこう。

 この作品は、「罪と罰」という題名である。

 自分は、この作品を読む前、「罪と罰」という題名から、人間にとって非常に根元的な罪を問うような奥深い内容の作品だと思っていた。

 「罪と罰」という題名の作品で、例えば、次のような作品もありうる。
 ある男性Aは、恋人とつきあっていたのだが、その恋人が、他の男性Bを好きになり、Bのところに行ってしまったとする。この男性Aはこれを逆恨みして、その恋人を殺害し、その結果殺人罪で10年間投獄される...。
 確かにこれでも「罪と罰」には違いない。だが、こんな単純でばかばかしい小説に、わざわざ「罪と罰」などという大げさで示唆的なタイトルをつけて売り出すのはいかがなものかと思う。東スポではあるまいし、そんなことをすれば、読者を大きく欺くことになろう。

 「罪と罰」というタイトルを掲げるからには、もうちょっと複雑な、社会や人間の本質的な問題を深くえぐる作品であってほしい。

 例えば、ある学校で、子どもたちの集団が一人の少年を、いつもいじめていたとする。普段、いじめに加わっていたわけではないある子どもが、ある時、このいじめ集団のリーダー格に脅されて、ただ一度だけ、いじめに加わり、その少年のズボンをみんなの前で下ろす。ところが、その翌日、いじめられていた少年は自殺する。このいじめに加わった少年は、やってしまったことの残酷さを実感し、いじめに加わってしまった自分の弱さを悔い、自分でその脅しに対抗することは難しかったにしても、教師に報告し、助けを求めるなどして、とにかくいじめに加わらないべきであったと悔いる。そして、一生、この時の記憶を引きずり、大人になった後も頻繁に悪夢を見ながら生涯を送る。
 この「罪と罰」は、他のパターンもありうる。例えば、いじめ自殺する子どもの父親は、前日に、学校でいじめを受けていることを父親に打ち明ける。だが、父親は、「勇気を出して、立ち向かえ。」と子どもに言い、学校を休むことを認めない。その結果、子どもは自殺する。
 または、母親が、家事に忙しく、子どもが前日に暗い顔で「お母さん...。」と呼びかけたときに、「今忙しいから、後でね。」と答え、そのままになってしまい、その翌日、子どもが自殺する、などのパターンもあり得よう。
 これらは、やむを得なかったにしても、いじめに加わったこと、子どもの言葉を受け止めなかったことが罪であり、その後の後悔や苦しみが罰である。

 別の例としては、「ひかりごけ」や、マイケル・サンデル教授の授業の例のように、数人の乗った船が難破し、漂流の末、乗組員たちは飢餓状態に陥り、生き残るために、一番弱ったメンバーを食べてしまったとする。衰弱したメンバーを食べてしまった彼らは、数日後に救助され、生き残るが、生涯、罪の意識にさいなまれる。彼らが法的に罰せられることはないとしても、罪の意識をずっと持ち続け、社会的非難にもさらされることになる。これが罰である。このように、その弱ったメンバーを食べないと自分が死んでしまうという状況では、誰にでも、その弱ったメンバーを食べる可能性はあるだろう。

 また、夏目漱石の「こころ」でもよい。先生は、Kを自殺に追いやった。先生は一生そのことを心に秘めて生き、最後、先生自身も自殺する。Kを死に追いやったのが罪であり、一生苦しみ最後に自殺するのが罰である。お嬢さんをKに持っていかれてしまうという焦燥感を持った先生がとった行動は、誰にでも理解できる。だが、それが一人の人間を死に追いやる。つまり、これは誰にでも起こりうる罪であり、罰である。

 これらの例は、誰にでも起こりうるからこそ、読者にとって重い問題を突きつける。

 だが、この、ドストエフスキーの「罪と罰」は、そんな高尚なテーマを扱っているとはとても思えなかった。

 この小説では、なんだか、主人公には高尚な考えがあるが、それが世間には受け入れられない、といった存在として、文中で描かれているような感がある。本当は違うのかもしれないが、主人公が周囲の人たちに、そういう風に扱われているシーンがかなり出てくる。

 だが、自分には、この主人公は、青年期にありがちな、自意識過剰な優越思想を持ち、一般大衆を愚民と思い、かつ、精神的に病んだ状態にある、全く大したことのない凡人に思えた。

 主人公が雑誌に発表した、大きな目的のためなら、一般民衆の命は失われても仕方ないこともある、というような思想は、特に目新しいところもなく、仰々しく理論などというようなものであるとも思えない。青年期には、誰でも一度は考えるような、ある意味ではまだまだ未熟で浅い思考の産物だろう。

罪と罰 (2)に続く!

光太
公開 2011年8月6日

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