罪と罰 (3)



これは(3)です。罪と罰 (1)から読むのをおすすめします。



○主人公にとって都合がよすぎの展開

 また、これは別の問題だが、自分には、この物語の展開は、主人公ラスコーリニコフにとってあまりにも都合がよすぎるように思えた。

 ラスコーリニコフは、非常に身勝手で、精神も病んだ状態にある。こんなラスコーリニコフと、どうしてラズミーヒンは、懲りずに仲良くするのだろうか?小説に描かれている限り、ラスコーリニコフと一緒にいても、ラズミーヒンにとっていいことなど一つもないように思う。何か、その根拠となるようなエピソードがある、といったことであればよいのだが、文章を読む限り、そうとは思えない。ソーニャにしても、ラスコーリニコフに嫌な思いばかりさせられているにも関わらず、あまりに従属的である。
 ラスコーリニコフの考えや生き方は、作者のそれらの反映なのだろうと思う。だが、いくらなんでもこのストーリーは、ラスコーリニコフに対して都合がよすぎるのではないか?現実を考えれば、このような人間は、人々から嫌われ、誰からも顧みられないようになると思う。作者が、自分自身をラスコーリニコフに重ね合わせ、周囲にそう扱ってほしいという願望を描いていたとしても、あまりにも現実味がなさすぎる。

 そして、主人公のラスコーリニコフが、精神的に病んでいて支離滅裂な行動をとるため、読者が主人公の行動に感情移入することも難しい。何かに追い込まれて、あることをせざるを得ない、といった流れなら納得できるが、ただ、支離滅裂に、状況を悪くするだけの主人公の行動に、自分はとてもいらいらした。
 自分は、読み進めながら、主人公に嫌悪感を持ち、早く捕まればいいのに、と思いながら読んだが、普通の読者はどうなのだろうか?主人公が捕まりそうになるとドキドキして、逮捕を免れたらホッとする、といった読者がいるのだろうか?自分は、主人公が捕まりそうになると期待して、捕まらないたびに、憤りを感じたのだが...。


○あまりにも浅すぎる女性描写

 また、ドーニャやソーニャの描き方もいかがなものかと思う。ドーニャやソーニャが、あまりにも理想像として描かれすぎているのだ。とても若くて素直でけなげで優しい(かつ頭もよくてきれいな)女の人なら、それは魅力的に決まっている。文中の理想化された女性たちを、男性読者たちはそれぞれに解釈し、それぞれの頭の中で想像し、彼女らに恋心を抱くかもしれないが、ここまで単純な女性描写は、果たして文学として優れているのだろうか?自分には、女の人の描き方としては、この作品は、子供向けのマンガやテレビアニメでも滅多に見られないくらいのあまりにも浅い描き方だと思った。
 仮に、若くて、収入が高く、頭が良く、顔もかっこよくて、話もおもしろく優しい男の人が、身勝手で精神的にも非常に不安定な主人公の女の子をいつも思いやる、などという設定の話があったとしたら、それは少女マンガとしてはいいかもしれないが、男性たちから見れば、そんな文学は、ばかばかしいの一言に尽きると思うのだが...。


○全く間違っている解説

 さて、上巻、下巻共に、裏表紙に短い解説がある。なんだかもっともらしく書いてあるが、これが非常におかしい。明らかに間違った解釈が書いてある。

 まずは、上巻の解説を引用しよう。

 「鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合わせたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。」

 だが、この説明は全くの誤りである。文学作品の解釈にはかなりの幅があると言えども、これはそういうレベルの問題ではない。ラスコーリニコフの心に、リザヴェータを殺したことが重くのしかかってなどいないし、ラスコーリニコフは、罪の意識に怯えてなどいない。本文中のどこにそんな記述があるのか?

 また、下巻の解説を引用する。

 「不安と恐怖に駆られ、良心の呵責に耐えきれぬラスコーリニコフは、偶然知り合った娼婦ソーニャの自己犠牲に徹した生き方に打たれ、ついに自らを法の手にゆだねる---ロシヤ思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1860年代、急激な価値転換が行われる中での青年層の思想の昏迷を予言し、強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書としての不滅の価値に輝く作品である。」

 こちらも、唖然とするばかりである。
 ラスコーリニコフが良心の呵責に耐えきれない、などとというのも解釈として不適切である。どこにラスコーリニコフの良心の呵責が描かれているというのか。また、ソーニャの生き方に大して打たれてもいない。また、自らを法の手にゆだねたのも、ソーニャの生き方に打たれたからではないだろう。それは、ラスコーリニコフが警察に捕まった後の、ソーニャへの対応を見ていても明らかであろう。そして、ラスコーリニコフが自分勝手に精神不安定の中で考えていたことの、どこが青年層の思想の昏迷というような高尚なものなのだろうか。いったい、これのどこが、強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書なのか。(付け加えれば、不滅の価値に輝く作品ということが大きな誤解であるということは言うまでもないが。)

 なぜ、こんな、間違ったことを堂々と裏表紙に書くのだろうか?明らかに間違ったことを書いて恥ずかしくないのだろうか。
 もしかしたら、内容を読まずに、裏表紙を見て、それを参考に読書感想文を書く生徒たちに対する、出版社ぐるみの罠なのだろうか...。
 ならば、学校の教師たちには、中身を自分で解釈しようともせず、裏表紙の記述を信じて読書感想文に書いた生徒たちがいれば、そうした生徒たちをきちんと留年させるようお願いしたい。


 それから、最後に付け加えておくが、ロシア語を日本語に訳すのは難しいのかもしれないが、日本語訳がおかしいように感じられるところが多かった。


 いずれにしても、名作とされているからと言って、価値あるものだと思いこむのはやめよう。それは、実は何の価値もない駄作かもしれないのだ。

(完)

光太
公開 2011年8月6日

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光太の映画批評・ドラマ評・書評・社会評論