1997年に起きた神戸の酒鬼薔薇事件では、14歳の加害者少年が11歳の男の子を殺害し、その頭部を中学校の校門に置いた。この時、テレビで出てきた解説者の中に、次のようなコメントをした専門家がいた。事件の起きた神戸市須磨区のこの地域は、新しくできた住宅地で、中高生がたむろすことができるような繁華街もコンビニもない。そういう町では子供たちは逃げ場がなく息が詰まって、過剰なストレスを感じてしまうのではないだろうか...。
バカバカしいにもほどがある。
コンビニの少ない町はたくさんある。でも、そこで、同じような事件が次々と起きているだろうか?神戸のこの町で、同じような事件が何件も起きているだろうか?海外でもそういう町はたくさんあるだろうが、そんなことが多発しているだろうか?
こういういい加減な分析をするのはやめてもらいたい。
環境要因ではなく、酒鬼薔薇聖斗が持っていた特殊要因の面が大きいだろう。同じような環境でも、彼を除いては、同種の事件を起こしてはいないのである。
統計データもないのに、無責任にそんなことを言う人々に、本当に憤りを感じる。
こういう事件に対して対策を立てようとしても、最初から環境要因が圧倒的であるかのように思いこんで、的外れな分析をしていては、こうした事件を減らすことはできないだろう。
もちろん、環境は、人間の性格などに一定の影響を与えている。抑圧を受ければ、それによる歪みや反動が生じる。例えば、戦争中、上官からのいじめや、ひどい貧困や飢え、いつ死ぬかもしれない恐怖の中で、旧日本軍の兵士たちは、相当な心理的抑圧を受け、アジアの国々で残虐な殺人や略奪を行った。日本の兵士たちは、あのような極端な抑圧の下になかったら、アジアの人たちを残虐に殺すことはなかっただろう。
また、受験などで母親などから常に小言を言われ、ストレスと憎しみが頂点に達して、母親を殺してしまうという事件もある。こうしたケースでは、明らかに、環境要因がかなり大きいと言える。小言を言い続ける母親という環境要因である。
そして、別の種類の環境要因もある。アメリカでは、銃を持つことが合法であり、そのために、数多くの殺人が起きている。銃が違法なら起きなかった殺人が多くある。銃を違法にすれば、アメリカでの銃による殺人は劇的に減るだろう。銃の所持が合法というのは、上の事例とは種類が違うが、やはり環境要因である。
だが、言うまでもなく、遺伝的要因・脳などに起因する要因も性格に影響している。
こうしたとりわけ残虐な事件について、環境要因はどの程度寄与しているかをきちんと考えていくことは重要である。
まずは、環境要因と、遺伝的・生来的要因のだいたいの寄与を定量的に明らかにした上で、科学的に考えていかなければならない。
そういうことを述べると、「そういうことができればいいが、人間というものは複雑で、そんなふうに簡単に説明できるものではないのだ」などという声が聞こえてきそうだが、それは全く浅はかな考え方である。そんなことを言っている人々は、自分の頭でものを考えることもせず、いつも感覚に流され、新しいものを生み出すこともなく、世界の人口を構成するただ一員として生きているだけの存在である。
そんなことを言っているから、いつまでもフィーリングでしか物事を論じられず、説得力もなく正しくもないイメージ的な説明をしているだけになってしまうのである。そして、その大半は、恐らくは完全に間違っている。
本当にきちんと解明しようと思えば、統計データに基づいて議論する必要がある。世界には多くの人々が住んでいるし、いろんな地域で環境はいろいろ異なっている。命の大切さを重んじる教育をしているところもあれば、そうでないところもある。特定の観念を強烈に教えている宗教国家もある。そうした膨大なサンプルを、きちんと統計的に分析すべきである。そして、遺伝的要因と環境要因を分ける研究には、膨大な数の一卵性双生児のペアを使ったすばらしい研究もある。
こうした統計的研究は、厳密な条件下でできる実験とも違うので、理想的なサンプルが得られるわけではない。また、たいへん手間もかかる。しかし、真の原因を明らかにするための調査、分析というものは、何でも、手間のかかるものなのである。
何の証拠も裏付けもないのに、ただフィーリングだけに基づいて、コンビニがないため、子供へのストレスが...、などと言うのは、意味がないどころか有害である。
長崎県佐世保市では、この事件から10年前の2004年にも、小学6年生が同級生を殺害するという事件が起き、命を大事にするような教育に力を入れたりしてきたそうである。
そうした中で、再び、こうした事件が起きたことに、佐世保市の関係者は衝撃を受け、10年間とってきた対策に不足はなかったか、などといった検討がされている。
だが、そういうことではないのだと思う。
命を大事にする教育をしてきたかどうかではないのだ。
教育や周囲の環境の改善が効果がある事例も確かにある程度あるが、むしろ、そうではない事例もたくさん存在することを正面から受け止めるべきではないか?
自分には、命を大事にする教育を、などというのは、全く効果がないとは言わないが、かなりアリバイ的な対応にも思える。もし、教育や指導で何ともならない部分がかなりあるとすれば、どういう対応がありうるかは難しいし、人間の本質的な残虐性・暴力性・異常性に向き合わねばならなくなるために、そこを直視し、受け入れたくない人もいるだろう。
しかし、本当に、こうした事件を減らそうと思えば、的外れな議論や努力をするのではなく、真の原因を明らかにし、それを元に対策を考えていくべきである。
環境に原因があると勝手に想定して、したり顔で、ただいたずらに無意味で誤った解釈を弄ぶようなことは、もうやめよう。
周囲の環境改善でそうした殺人を減らせる部分があれば、それはそれでやればよい。しかし、人間の本質的な残虐性、異常性に向き合い、きちんと研究し、その知見を積み重ねていくことは、我々の社会にとって、極めて重要なことであると思う。
(完)
光太
公開 2014年9月23日