日本の戦争責任 (1)


 第二次世界大戦で日本がしたことについて、「中国などに対して、いつまでも謝り続ける必要はない」などといった声が、最近は大きい。
 日本はきちんと反省し、謝ることが必要だと考える人々に対して、それは自虐史観だ、などと中傷する声も大きい。

 第二次世界大戦中の日本の戦争は、仕方なかった、悪い戦争ではなかった、侵略ではなかった、などと言いたがる人々も多い。
 また、南京大虐殺では30万人も殺していない、中国は嘘つきだ、などと言いたがる人も多い。


 しかし、改めて、あの戦争で日本がしたことを考えてみる。
 日本が始めた戦争の犠牲になった人数は、各国の推定で、中国1000万人以上、フィリピン110万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、などとなっている。各国が多少、多めに見積もっているにしても、これらの国々やその他アジアの国々を合わせて、全体で数百万人は犠牲になったとは言えるのだろう。

 1995年の阪神大震災で亡くなった方は約6000人、2011年の東日本大震災で亡くなった方は約19000人である。あの、悲惨な広島原爆で亡くなった方は約14万人、長崎原爆で亡くなった方は7万人強である。それぞれの人にそれぞれの人生があり、親がいて、子どもがいた。友達もたくさんいた。それぞれのそうした人生が残酷に引き裂かれたわけである。我々は、こうした出来事がいかに悲惨であったかを、テレビなどを通じてよく知っている。何万人もの人々がそうした目にあったというのは、本当に痛ましい。

 第二次世界大戦では、日本のトータルの犠牲者数は、約300万人である。300万人というのはものすごい数であり、そんなに多くの人たちが理不尽にも死んでいかなければならなかったことは本当にむごいことである。そんなことは、二度と繰り返してはいけないと思う。
 だが、日本は、同時に、それをかなり上回るアジアの人たちを死に追いやったのである。

 自然災害で亡くなったなら、受け入れるしかないとも思えるかもしれない。日本が始めた戦争の結果、原爆を落とされることになったなら、日本自身が戦争を始め、原爆が落とされるまで戦争をやめる決断をしなかったことの責任も問われなければならないだろう。
 だが、他国から一方的に侵略され、国民が殺されたら、人々はその侵略してきた国々に対して、恨みを持たないでいられるだろうか?

 南京大虐殺にしても、30万人は過大だったとしても、どんなに少なく見積もっても3千人の人々を残酷な方法で虐殺したのなら、十分に大虐殺である。日本が恨みを持たれても当然であろう。

 もし、逆に、日本が中国に侵略され、何百万人も殺された挙げ句に、3千人が残酷に大虐殺されたとしたら、日本はそれをすぐに忘れることができるであろうか?
 特に、南京大虐殺や日本の戦争責任を否定するような人たちは、それを忘れることができるのであろうか?忘れることができるというなら、その寛容さに敬服するしかない。しかし、そうした人々こそ、もしそうした過去があったとしたら、声高に中国の戦争責任を叫び続けるのではないか?中国は謝罪せよといつまでもいつまでも言い続けるのではないか?だとしたら、その態度の都合の良さは、全く軽蔑すべきであり、己のことしか考えられないその視野の狭さは、驚くべきものであるとしか言いようがない。

 2002年の小泉訪朝で、北朝鮮は、13人の日本人を過去に拉致していたことを認めた。実際に拉致された人数は、何十人かもしれない。だが、この数はどんなに多く見積もっても、数百人である。北朝鮮が日本人を拉致したことはもちろん、大きな問題であるし、北朝鮮のしたことの罪は、きちんと追求されてしかるべきである。しかし、日本は、過去に、何万人もの朝鮮人を日本に強制的に連れてきた。そして、第二次世界大戦で何百万人ものアジアの人々を死に追いやった。日本が、北朝鮮を厳しく追及するなら、自らが、身勝手な侵略で、はるかに多くのアジアの人々を死なせてしまったことを深く反省し、犯してしまったことの責任を自覚し、常に謝罪の念を表明する必要がある。そうでなければ、日本人は、自らが受けた数十人の被害は声高に叫び、自らが与えた数百万人の被害をなきものにしようとする、全く身勝手きわまりない、恥ずべき人々になってしまう。

日本の戦争責任 (2)に続く!



光太
公開 2013年11月15日

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