私は貝になりたい (2)



これは(2)です。私は貝になりたい (1)から読むのをおすすめします。



○ 日本軍による、捕虜への残虐な行為

 これもひどい。どこの国においても、戦争中の捕虜に対しては、拷問などが加えられることがある。だが、旧日本軍が行った暴行は、本当にひどかったようである。捕虜といえども、どんなふうに扱ってもよいわけではない。捕虜という弱い身分に対しては、過酷な拷問などが行われやすいため、捕虜の扱いについては、国際法でもそういうことが行われないように定められている。だから、一般的には、捕虜に対して拷問したり暴行したりしたくなるところを自制し、我慢するわけである。そして、実際、第二次世界大戦中に、他の国の捕虜となった日本人は、ここまでの扱いは受けていなかったはずである。
 ところが、日本軍は、捕虜たちに対して歯止めのない暴行を行った。映画でも、捕虜を残虐に殺すシーンが出てくる(映画では捕虜は先に死んでしまったが、それは結果的にそうなっただけで、残虐に殺そうとしていたことには違いない。)。この理由は、一つには、軍隊内部のいじめの場合と同じで、過酷な貧困のもと、異常に抑圧された兵士たちが、そのはけ口を求めずにはいられなかったことが挙げられるだろう。また、当時、日本の社会は、明らかに不合理で無理のある戦争において、国民の戦意を鼓舞するため、「鬼畜米英」などという、これまた滑稽なスローガンを掲げた。アメリカ人などは鬼畜だというのだから、それは、残虐に殺せば殺すほど好ましいことになる。だが、こんなスローガンを掲げなければいけないことこそ恥ずかしい状態なのである。国民に対して、こんなばかげたスローガンまで掲げなければ戦争状態を続けられなかったことは、非常に恥ずかしいことなのである。


○ 夫、父親を戦場に送り出す家族の悲しみ

 この映画では、妻がバリカンで夫の髪を刈るシーンで、それが鮮明に描かれている。赤紙が来たときの衝撃と悲しみは、本当に大きいだろう。赤紙がきた時点で、家族は、これから長い間、夫や父親と一緒に生活できないこと、そして、彼らがかなりの確率で亡くなってしまい、二度と帰ってこない可能性まで覚悟しなければならないわけである。その心痛たるや、ものすごいものがある。
  また、この物語の場合は、結局主人公が帰ってきたからいいが、帰ってこない場合は、本当に悲劇である。そして、ここでも、そうした悲劇が戦意喪失につながらないよう、戦死することが名誉であり、無事に帰ってくることは恥である、といったような歪んだ認識を植え付けなければならなかった。よくもまあ、そんな明白な白々しいウソを植え付けようとしたものである(全く愚かなことに、それに洗脳されてしまい、高圧的に他の人々に押しつけようとしていた一般市民もいたのだが、そんな人々は全く軽蔑すべき人々である...。)。
 家族は、出兵する夫や父親に、生きて帰ってきてほしいと、当然のことを言うことすらできなかったのである。こんなくだらない時代は、決して繰り返してはならないと改めて思う。


○ 戦争中及び戦後の貧困

  この映画では、子どもが、ご飯が食べられずにおなかがすくことについて少し文句を言うシーンがある。でも、この映画では、そのくらいの描写にとどめられていて、貧困の問題はそれほど全面には出ていない。これについては、「火垂るの墓」などがよりダイレクトに表現しているかもしれない。


○ 殺される間際の人間の心境

 さらに、戦争の悲惨さとは別に、この映画は、もう一つ、非常に大きなテーマを描いている。
 それは、殺される間際の人間の心境である。
 言うまでもないことだが、生物の最大の目的は生きることであり、従って、生物というものは、強い生存本能を持っている。そして、これも言うまでもないことだが、人間もその一員である。
 そうした中で、死を宣告され、それを待つ状態というのは、本当に異常な事態である。
 毎週、次の死刑の執行は自分かもしれないと、恐怖におびえながら生活するということは、人間にとって最も過酷な状態であろう。
 その恐怖を、この映画は非常に静かに描いている。

 ホラー映画などでも、死に直面した場合の恐怖が描かれることがあるが、その場合はもともと虚構であることがわかっている。だから、そういう状況が描かれていても、それはファンタジーの世界の話であって、切迫感はない。この映画のストーリー自体はフィクションであるが、この映画で描かれている状況は、全く同じではないにしても、戦時下では同様のことが現実に起こり得た(例えば、ナチスの収容所で、ガス室に送られるのを待つ状況などを考えてみるといい。)。だからこそ、この映画が描いている状況は、非常に恐ろしいのである。また、こうした戦争が近いうちに再び日本で起こる可能性は低いにしても、死刑制度は日本では現在も存在しており、毎年数人の死刑が実際に執行されている。死刑囚たちは、同様の恐怖を感じているのだろう。
 この映画は、人間の死に対する恐怖(すなわち、人間の強い生存本能の裏返しである)をダイレクトに描いており、見る者を圧倒する。


○ 最後に

 以上述べてきたように、戦争の過酷さ・悲惨さ、死への恐怖を鮮やかに描いているこの映画は、非常に高く評価できる。

 そして、この映画は、日本の多くの人に観てもらいたいと思う。
 戦争に対して、最近は、あまり抵抗感がない人たちもいるようだ。戦争を振り返り、反省することを自虐史観、戦争は嫌だと述べることを平和ぼけ、対話路線をとることを弱腰外交などとレッテル張りをするような人々も最近は多い。
 だが、戦争とはやはり悲惨なものである。威勢のいいことを言うことがかっこいいと思っている人も多いようだが、そういう浅はかな考え方が、結果的に人々をどんなに苦しめることになるのか、よく知った上で、意見を述べた方がよい。

 この映画については、例えば、SMAPや中居正広のファンだから、この映画を観たという若い人たちもいると思う。そういう理由でも、一人でも多くの人が、こういう映画に接する機会を持ったことはすばらしいことだと思う。中居正広が主人公であった意味が大いにあったということになると思う。
 そして、できるだけ多くの人が、日本が過去に起こした戦争の結果、人々がどういう生活や生き方を強いられたのか、理解しておくべきだろう。もちろん、それは、抑圧と貧困に苦しみ、大切な人を失う悲しみのもとにおかれた日本国内の人々のことも、侵略され殺害されていったアジアの人々のことも、ひどい拷問と暴行を加えられた欧米の捕虜たちのことも含めてである。

 それは、いつか将来、日本が重大な決断をする瞬間がやってきたとき、日本を間違いのない方向に向かわせる責任は、我々日本人一人一人にあるからである。

(完)

光太
公開 2012年9月1日

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