ブタがいた教室 (3)



これは(3)です。ブタがいた教室 (1)から読むのをおすすめします。



○ やや残念かもしれないところ

 この映画の、残念かもしれない点の一つは、一番最後である。結局、子供たちは、飼っていた豚を食べない。子供たちに与えられた選択肢は、ブタを3年生に引き継ぐ、または、食肉センターに送る、の2つであった。
 食肉センターに送った後、そのブタがどうなったのかはわからない。だが、子どもたちの議論の内容などからしても、食肉センターで処理した後、育てたブタを食べるという想定ではなかったと思う。少なくとも、一番重要な、子どもたちが自分たちの育てたブタを自分たち自身で食べるというところは、結局描かれなかった。もちろん、本当は、そこが一番重要である。
 だが、だからといって、自分はここを殊更に批判する気にはなれない。なぜなら、それを映画で描くことは、非常に難しいだろうと思うからである。食肉センターに連れて行かれるところは、映画で美しく描くことができるが、子どもたちがPちゃんを泣きながら食べているシーンを映画にすれば、そこに強い嫌悪感を抱く人たちがたくさん出てくるのは、明らかすぎるほど明らかだからである。そういう映画にすることはできないという事情は十分に理解できる。
 その点について、この映画を批判するのは、酷すぎるだろう。

 もう一つは、食べるためにブタを育てようということなのに、子どもたちはブタに名前をつけ、仲間として扱い、ペットとしてかわいがっている。この映画の星先生は、それを特にやめさせようとはしておらず、その点にも疑問がありうる。
 すなわち、最後にブタを食べるなら、ブタは最初から一貫して家畜として飼われるべきであり、ペットのようにして飼ってきたものを子どもたちに食べさせるのはおかしい、という批判がありうるだろう。自分もインターネットなどで、実際にそうした批判を見たことがある。こうした批判の趣旨は、つまり、食べ物のありがたさを理解するために、食べるためのブタを大切に育てましょうという教育が本来の目的であるはずなのに、それが動物を仲間としてかわいがりましょうという教育になってしまっており、最後には仲間としてかわいがっているものを食べるかどうかの判断を子どもたちにさせているということである。

 この批判は確かに一理あるかもしれない。

 だが、一つには、映画として印象的なものにするための演出として、ブタを非常にかわいがる設定にしたのだと思う。実際には、嵐の日に、みんながブタのことを思って学校に駆けつけたり、ブタと一緒に花火をすることはないだろう。しかし、商業的にも成功しなければならない映画として、子どもたちの苦渋の思案・決断を印象深いものにするために、こういう脚本にしたのだと思う。ブタへの親近感や愛情が深ければ深いほど、当然、最後の判断も苦渋に満ちたものになり、映画を観ている人にもそれがダイレクトに伝わりやすくなる。そうでない映画を作れればいいかもしれないが、商業的に可能でなければ、これが映画化されることもなく、この映画や、この映画の投げかけている重要な問題が、多くの人の目に触れることもなくなってしまう。とすれば、これは許容していい範囲だと自分は思う。

 また、ペットとして飼っておいて最後に殺すのは残酷であり、もし食べるならば、最初から家畜であると認識させて飼わせなければいけないという批判に対して、さらに深いところを考えれば、最初から家畜であるという線引きをすることで本当に問題がなくなるのだろうか、とも思う。
 言うまでもないことだが、家畜として育てられ、最後に食べられるブタと、ペットとして、仲間として大切にかわいがられながら育てられるブタは、本質的には全く同じものである。どっちに振り分けられるかは、人間の全くの一存で決まる。人間が勝手に、これはペットにしようと思った場合は、愛情を注いで大切に育てられ、決して食べられることはない。だが、人間が家畜にしようと決めた場合は、仲間やペットとしては見られず、より下等なものとして扱われ、食用として見られることになる。上のような批判をする人たちは、最初にどちらかにちゃんと決めなければならないと主張する。だが、どちらにするかを決めるのは人間が勝手にやっているだけである。こうした勝手な区分けをすることで、本質的には同じものを違うものであることにしてしまい、育てた動物を食べるという重圧から逃れようとするなどというのは、人間のご都合主義に他ならないと思う。なんと身勝手な、とも思う。
 家畜として育てられる動物も、ペットとして育てられる動物も、実は全く同じものである、ということを理解することも大切なことだと思う。また、人間が勝手に両者を区別することにし、ある場合にはその動物はかわいがられ、ある場合には食べるためのモノとしてみなすという身勝手なことを行っていることを認識するのも大事だと思う。その意味では、この映画で、ペットのように扱われているものを食べるかどうかの判断というものは、非常に高度な問題を提起していると言えよう。
 また、これについて深く考えることにより、人間は、ペットとしている犬や猫は食べずに大いにかわいがる一方で、牛の方は生きている動物であるということをわざと考えないようにして、モノとして食べているというご都合主義的な実状を振り返って考えるきっかけにもなるだろう。

 さて、この映画には、もう少し細かい点でも、いくつかの非現実的な点がありうるだろう。

 例えば、ブタが何度も逃げ出しすぎる。ブタが逃げるたびに、星先生は何度も注意を受けているはずで、それならば、当然、星先生たちは、柵を頑丈に作り、ブタが逃げることはほぼ不可能にしているはずである。そうしなければ、このすばらしい試みが、些末なことで批判を受けてやめさせられたりするかもしれないからである。だが、ブタは何度も簡単に逃げ出す。これは不自然である。
 しかし、ブタが全く逃げなければ、ドラマ性は生まれず、映画としてのおもしろさがなくなってしまうだろうから、これは許容すべきだろう。

 また、ブタは、逃げ出しては、校舎の中の階段を上って教室にやってきて、外から教室の中を覗いていたりもする。そんなことも実際にはないと思う。これは演出としてさすがにやりすぎだろう。

 そして、ブタを飼う場合、近隣への悪臭と鳴き声による騒音が大きな問題となると思う。自分の知り合いの家の近くに、養豚場があり、すぐそばではないのに、特に夏は、ひどい臭いがしていた。実際にこの映画のように、市街地の真ん中にある学校でブタの飼育が可能なのだろうか?ということもある。

 だが、こうしたことは、映画のすばらしさから見れば、些細なことと言えるだろう。


○ まとめ

 いずれにしても、この映画で描かれている、肉という食べものがどうやって作られるのかをきちんと理解するということは非常に重要なことである。食べ物を大事にする、といったことは、親や教師が上から押しつけなくとも、こうした理解から自発的に達成されるだろう。

 自分は、すべての子どもたちに、映画の中の子どもたちが体験したことを実際に体験してほしいと思う。

 いきなりブタはたいへんかもしれないから、まずはニワトリでもいい。

 文部科学省は、これを必修のカリキュラムとし、子どもたちに、肉を食べるということの裏にある現実をきちんと理解させ、さらには、本当の考える力と真剣に討論できる力を身につけさせるべきである。

 日本の子どもたちは、これにより、大きく変わると思う。

 いずれにしても、この映画は、本当にいい映画であったと思う。中身のない、ほとんどの映画とは、全く比べものにならない。
 この映画を見ることができて本当によかった。


(完)

光太
公開 2012年2月5日

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