雨男・雨女


 先日、テレビのバラエティ番組で、ある若い女優が、「私は、雨女なんですぅ。ドラマの撮影で、私がいるときはすごくよく雨が降るんです。ある時なんか、すごい土砂降りになってしまって...。」などと、得意げに話していた。
 周りのゲストたちも、「へー!」と、さも興味深い話を聞いたかのように驚いていた。

 なんとバカバカしい光景であろうか。

 あまりにも当たり前すぎて言うまでもないが、ある人間がその場所にいると雨が降りやすい、ということなど、あるはずがない。

 例えば、日本には、いろんな地域があって、雨が降りにくい場所も、降りやすい場所もある。雨が降りやすい場所には、雨男・雨女が集まって住んでいるのだろうか?

 また、日本には梅雨の時期があって、その時期には毎日のように雨が降るが、雨男・雨女たちは、その時期にどこからともなく日本に集まってくるのだろうか?そして、梅雨が明けると一気に天気が安定して、太陽がさんさんと照る暑い毎日が訪れ、雨が降りにくくなるが、雨男・雨女たちは、梅雨明けとともに、ゲルマン民族の大移動のごとく大集団で海外にでも行ってしまったのだろうか?そして、冬には、日本海側では毎日のように雪が降り、太平洋側は、ほとんど雨が降ることはない。雨男・雨女たちは、冬になるとあたかも渡り鳥のごとく一斉に日本海側に移住するのだろうか?

 バカバカしい。

 雨男・雨女など存在しないことは、ちょっと考えれば誰だってすぐにわかる。

 しかし、明らかに嘘の話をしながら、バカな番組出演者たちは盛り上がっている。
 本人も大まじめに語っている。
 ものの見方が近視眼的にもほどがある。

 日本でも、夏などに時々、水不足になることがある。

 関東でも、数年に一度くらい、渇水になり、取水制限などが行われる。四国などは、特に夏の時期に、かなりの頻度で水不足に悩まされている。

 雨男・雨女を自称する人々、自分の雨男・雨女経験を鼻高々に語っている人々は、どうして、そういうときに、大挙してその土地へ行ってあげないのだろうか?
 その人がいることで雨が降るなら、水不足で困っている人たちのために、その土地に行ってあげるくらい、たやすいことである。それくらいのこともしないとすれば、自称雨男・雨女たちは、本当に冷酷非情な人たちである。農家の人などは、作物が枯れたりして非常に困っているのだ。そこでその人が行ってあげさえすれば雨が降るというのに、行くことすらしないとは、性格が悪すぎる。

 さらに危機的な例もいろいろある。カリフォルニアやオーストラリアでは、干ばつのために、よく山火事が発生する。植物ばかりでなく、家々が焼き尽くされ、死者が出ることもある。
 そんなときこそ、普段、雨を降らせる能力があると豪語している雨男・雨女の出番である。
 なにしろ、人命がかかっているのだ。仕事上の都合など言っていられない。すぐにでもカリフォルニアやオーストラリアに駆けつけるべきである。それをしないのは、家々を失おうとしている人々、火事で焼け死んでいく人々を見殺しにしているのと同じである。人間として、そんなことができるだろうか?いや、そんな残酷なことはできないであろう。そんなことをすれば、人命が失われようとしているのに助けなかったことを、一生悔いて生きていくことになるだろう。雨を降らせる能力があると普段から言っているのだから、その力をいかんなく発揮すべきときだ。もし、それをしないのであれば、急病でまさに死なんとしている患者が目の前にいるのに、それを助ける能力がありながら助けようともしない医師のようなものである。そんな医師は、人間性を疑われるだろう。

 また、アフリカでは、干ばつにより、毎日多くの人々が食糧不足などで亡くなっている。さあ、再び、自称雨男・雨女たちの出番である。そんなに雨を降らせることができるというなら、是非とも、アフリカの小雨地帯や砂漠に行き、いかんなく力を発揮して雨を降らせてほしい。普段の能力をもはや抑える必要はない。まさに、「アナと雪の女王」である。エルサが普段隠していた能力を力一杯使って氷の城を打ち立てたように、砂漠に雨を降らせるがよい。アフリカの多くの子供たちの命が救われる。そして、砂漠を緑化して、地球温暖化も抑えよう。まさに、夢の大事業である。雨男・雨女たちの絶大な力に期待が高まる。もう、誰にも気兼ねする必要はない。思う存分に力を発揮し、”ありのままの姿”を見せてほしい。

 この期に及んで、そんな力はなかった、などと、まさか言わないだろう。これまで豪語してきたことの責任がある。テレビの全国放送で、そんなことを日本全国の人々に得意げに語っていたではないか。

 そして、雨男・雨女が、カリフォルニアやオーストラリアの山火事現場にさっそうと現れ、雨を降らすことによって山火事を鎮火し、多くの人の生命・財産を守り、砂漠を緑化して、多くのアフリカの子供たちの命と地球環境を守れば、またバラエティ番組で得意げに雨男・雨女のエピソードを語るときに、そうした偉大なる功績も加えることもできるだろう。ドラマの撮影で雨が連続して降ったなどと言うスケールの小さな話などする必要はない。そんなに謙虚に話すことはないのだ。もっともっとスケールの大きい、人道的な大きな功績について話すべきである。
 そして、そうした功績は、もはやバラエティ番組で話すようなものではなく、ノーベル平和賞に値する行為であり、世界中のニュースで取り上げられて賞賛されることになるだろう。


 雨男・雨女などと言って、自分の体験を喜んで自慢げに語っている人々は、その人の存在によって、天候という非常に大きなスケールのものを変える能力があると言っているわけである。全く、傲慢にもほどがある。自意識過剰にも限度があるというものである。自らの存在を、そこまで大きいものであると認識するなど、本当に、厚かましく、恥知らずというものである。

 自称雨男・雨女たちは、ここまで読んできて、自分の視野の狭さに気づき、これまでの自分の無責任な言葉に気づいたならば、結果的に、周りの人に嘘を振りまいてきたことを深く反省して、悔い改めるがよい。
 この期に及んで、まだ自分自身の存在が雨をもたらすなどと思っているのなら、その類まれなる能力を直ちに命を救うのに生かしてほしい。それをしないというのであれば、その人間は、困っている人を見捨てるたいへん罪深い人間であるということである。
 まあ、その前に、例えば関東地域には、季節に関わらず自称雨男・雨女と言っている人たちがたくさん存在するのに、冬の間、ほとんど雨が降らないことをよく考えた方がいいと、個人的には思うが...。


(完)

光太
公開 2014年9月23日

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