ノルウェイの森 (2)



これは(2)です。ノルウェイの森 (1)から読むのをおすすめします。



 また、この小説ではセックスに至る道筋があまりにも容易に描かれている場合が多い。この小説では、毎週末バーで声をかけてホテルに行くのが「実際にやってみると本当に簡単だった。」と書いてある。いくら、永沢さんが言葉巧みで魅力的な人物であるとしても、現実社会で、こういうことはない。その成功率がほぼ100%ということはない。ウソだと思うなら、やってみればよい。この小説を読んでいて、村上春樹は、現実社会の取材をほとんどしていない、もしくは最初から現実にありうるかどうかなどはどうでもよく、現実とは遊離した全く架空の世界で話をすることに何のためらいも持っていないのだと感じた。そもそも、この小説に出てくる、永沢さんたちが通っているようなバーは、実際には存在しないと思うのだが、例えば、ナンパの成功率が比較的高いクラブにおいて、多くの男の子たちは、ほとんどの場合、何の収穫もなく空しい朝を迎える。その日のうちにホテルまで行く可能性は、平均的には、どんなに高く見積もっても20%に遠く及ばないだろう。実は、顔がよくてもこの確率はあまり高まらない。一番重要なのは、話術であり、どんなに断られてもめげない強靱な精神と、女の子に対してなれなれしく振る舞えることがとにかく重要である。そして、仮に、非常に話術が得意で、こうした性質を兼ね備えている男の子であれば、もし、どんな女の子でもいいと大胆な妥協をするなら、この確率を50%程度に高めることは不可能ではないだろうが、そうだとしてもほぼ100%ということはありえない。この小説に登場するバーの規模であれば、クラブに比べてはるかに客の人数が少ないだろうから、ホテルにすぐに行くような女の子を見つけるのも難しいだろうし、一つのグループにアタックしている様子を、他の女の子グループも観察できる環境であろうから、失敗したら次々に声をかけるということも現実的には難しく、この確率は10%にするのもかなり困難に思われる。

 そして、この小説の記述を見ている限り、永沢さんのキャラクターが、ナンパに適したキャラクターには見えない。ナンパの様子が詳細には描かれていないのでよくわからないし、ナンパの時には、永沢さんは、普段と全く異なるキャラクターを演じるのかもしれない。だが、永沢さんは、「システムが...」などと言っているようなタイプの人間である。こういうタイプの男の人を強烈に好む女の子も一部にいるのは事実だが、これは万人受けするキャラクターではない。永沢さんには、クラブにおいての50%の成功率も相当難しいのではないかと思う。

 しかも、この小説の状況だと、別の問題もある。この小説では、毎回、行きつけのバーに行って、女の子に声をかける。村上春樹は、行きつけのバーというものを、いかにもかっこいいモチーフとして使いたかったのだろうが(行きつけのバーなどというものを持ち出してくる辺りに、自分はむしろ時代遅れのセンスを感じるのだが...。)、ここには大きな問題がある。行きつけのバーということは、そこに集まる女の子たちも常連だったり、常連でなくとも何度かは訪れる女の子も多いだろう。そこで、永沢さんは、夜な夜な声をかけては女の子をホテルに連れて行っている(ということになっている)わけである。最初からそうした男の人を了とし、再びバーに訪れた際に、他の女の子たちに声をかけまくっている永沢さんに会ったときにも笑顔で接することができる女の子もいるにはいるだろうが、そういう女の子の割合はそれほど多くはない。一般には、そういう行動をしている永沢さんに複雑な思い(時には嫌悪感や怒り)を抱くだろう。そして、そういった女の子たちは、おしゃべりが好きという特質を、女の子同士のネットワークをベースに大いに発揮し、永沢さんの噂は、瞬く間に、店中の常連やリピーターの女の子たちに知れ渡ることになろう。さらに、怒りに燃えた女の子の一部は、初めて店にきた女の子にも、親切に念入りな注意をするかもしれない。一般に女の子同士の情報ネットワークは非常によく機能しているから、永沢さんの店における立場は、すぐに厳しいものになると考えられる。したがって、この小説に描かれている状況が実現可能だとはとても思われない。

 また、この小説には、初めて会った女の子と、「どちらから誘うともなくホテルに入った。」という場面が出てくる。だが、現実にそんなことはありえない。女の子が、つき合っていない男の子とホテルに行くことは、それほど稀なことではない。だが、この多くは、すでに知り合いの場合が多い。男友達の家に遊びに行った時に、セックスに及ぶことは比較的多いが、時には合意してホテルに行く場合もある。だが、初めて会った男の子とホテルに行くのは、それらに比べると頻度はかなり低い。もちろん、女の子たちの中には、初めて会った男の子とでもホテルに行ってもいいと思っている子たちもそれなりにいる。だが、だからといって、普通は、女の子の方から、男の子に向かって、ホテルに行こう、とは言うことはほとんどないし、ホテルに明らかに行きたそうに振る舞うこともあまりない。女の子の多くは、普通は、行きがかり上自然な状態で、結果的にそうなったという形を、形式だけでも取りたがる。そこで、現実世界の男の子たちは、それが自然に行くように、事前に様々な戦略を練って、そこまで持っていくのである。現実的に考えて、ホテルに行く自然な状況を作り出すのは、けっこう難しいので、ホテルの場所についての事前の調査から始まって、いかにしてそこに自然にたどり着くようにするのか、どういう状況でそこに入る口実を作るのか、など、男の子たちはかなり綿密な計画を練っていくわけである。そういう現実から考えて、この小説の記述はあまりにも非現実的であると思う。

 それから、この小説には、精神的に問題がある人たちやその療養所が出てくる。しかし、これは、現実のそういった人たちや療養所とは全く異なっている。この小説に描かれている人たちや療養所の生活は、非常に美しく描かれている。だが、そうした人たちの実際の姿にしても、周りの人たちの苦しさにしても、ここに描かれている姿とは全く異なっている。実際の療養所にしても、現実ははるかに厳しい状況にある。そんなことは、テレビで、そういう人たちやそういう人たちの施設を取り扱ったドキュメンタリーや特集を見ただけでも容易にわかる。したがって、この小説を読んでも、現実のそういう人たちを理解する上で参考になるとは全く思えない。もちろん、現実のそうした人たちの姿や苦しみなどを描くことがこの小説の目的ではないので別にかまわないといえばかまわないのだが、この小説を読んで、そういう人たちの何かをわかったような気分になるべきではないだろうと思う。


 最後に、この小説の非常に優れた点を挙げたい。この小説に出てくる言い回しや発想のおもしろさには、卓越したものがある。「雨にうたれた猿のように疲れている」、「春の熊くらい好きだよ」、といった表現は、普通の人にはなかなか思いつくものではない。また、小林緑のキャラクターやその発想も非常におもしろい。海賊につかまって、裸にされて、ワタナベ(主人公)と一緒に紐でぐるぐる巻きにされたい、などという発想は、一般の人にはなかなかできないことである。

 そして、自殺やセックスシーンを多用したりしつつも、この小説の、読者を引き付ける力には、抜群のものがある。

 この小説は、何の意味も、読者に訴えかけるメッセージも持っていないと思う。その点で、この小説を読んで不満に思う人も多いに違いない。自分もそこには大いに同意する。
 だが、それでも、この小説を自分はそれなりに評価している。例えば、おいしいものを食べたり、熱中できるテレビゲームをしたりすることには深遠な意味はない。しかし、人々はそこから快楽を得ることができるし、そうしたことは人生にとって大きな意味を持つ。おいしい食べ物やテレビゲームに大きな存在意義があるのと同様に、この小説にも、そうした役割としてのある程度の存在意義があるのだろうと思う。

(完)

光太
公開 2011年5月30日

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