箱男 (2)



これは(2)です。箱男 (1)から読むのをおすすめします。



○ アダルトビデオとどっちが芸術的価値が高いか?

 不自然と言えば、見習い看護婦は、男性側にとってあまりにも都合よく描かれすぎていることに中盤、不満を持った。
 若い魅力的な女の人が、いくら、ちょっとくらい恩義があるとは言え、医者のところにとどまり、共同生活をし、裸になることがあるだろうか。そして、箱男が医者と入れ替わろうかという話に対してさえも、この見習い看護婦は、男性たちの望むような対応をとるわけである。普通なら、ある程度魅力のある若い女の人がいれば、魅力のある若い男の人たちだってほっておかないわけで、そうなれば、その女の人は、かなりの年上好きなどの特殊な場合でない限り、魅力ある若い男の人の方に行くはずである。若い男の人の中にも、中絶の費用くらい払ってくれる人はたくさんいるだろう。なのに、この見習い看護婦は、男性側の望むような行動をとり続けるのである。

 アダルトビデオ並みの都合よさである。

 しかし、これは、小説の途中で、現実ではないという流れになっていく(本当にどうなのかは結局よくわからないのだが...。)。見習い看護婦が、箱男の妄想であれば、こんなに都合がよく描かれていたとしても、まあ、勝手に妄想を楽しんでくれればよい。
 この都合のよい妄想に文学的価値があるとするなら、アダルトビデオの芸術的価値はそれをはるかに上回るだろう。だから、文学作品としてこうした妄想を読むくらいなら、アダルトビデオを見ていた方がよっぽど高尚な芸術鑑賞となろう。
 まあ、それはともかくとして、この見習い看護婦は妄想、ということであれば、少なくとも、不自然な都合良さを説明する観点からは、何の問題もないと言えるだろう。


○ 無意味にわかりにくくする手法

 ここまでは、この小説の不自然なところについて述べてきたが、これらとは別に、もう一つ、この小説でどうしても好きになれないところがあった。

 それは、小説の記述者がいろいろと入れ替わり、しかも、それをわかりやすくは明示していないところである。

 この小説は、中盤までは、不自然なところがたくさんあるとは言えども、わざとらしく混乱を誘うような書き方はしていなかったので、まあよかった。だが、中盤の、箱男の壁の落書きがどうのこうのというところ以降は、だんだん話の意味がわからなくなっていく。

 なにも、記述者、すなわち小説の視点が変わるのが気にくわないと言っているのではない。視点、すなわち小説の地の文の主体が変わってもいい。登場人物それぞれの立場からの見方が描かれているのもいいと思う。だが、それならそれで、素直にそう書けばいいのだ。
 例えば、これがドラマなら、そのシーンで誰を写すか、または語っている声から、その時の語りの主体が誰なのかは一瞬でわかる。小説の場合だと、読み進めていかなければそれがわからないが、こんなところに読者の労力を使わせるなどというばかばかしいことをわざわざする必要はない。今の記述者が誰なのかといった推測など大しておもしろいことでもないのだから、医者なら医者、看護婦なら看護婦、過去の誰かの視点なら、誰々の何年前、などとしてはっきりさせておけばいいのだ。それを、わざと読者を混乱させるかのように、わかりにくくしながら書いている。奇をてらってわざと謎めかすようなやり方はいかがなものか。
 そんなところで勝負せずに、堂々とわかりやすく、今は誰が記述者なのかをはっきりさせ、章の間がどういうつながりになっているのかを読者に明瞭にしながら物語を進めていけばいいのである。

 最後の「解説」では、こうした点について、あたかも安部公房が小説にとって重要な問題を提起しているかのように書いてある。だが、本当にそうなのか?自分には、それは、小説の最後についている「解説」として、「箱男」を無理やり肯定的に評価しなければならなかったか、解説者として何か知的なことを言わなければならないと思って高尚っぽく見えるような論理を考え出したか、安部公房の文章には深い何かが含まれているという前提で勝手に深読みしたかのいずれかであろうと思える。

 小説の話者をどうするかというのは、確かに小説を書く上での一つの重要な問題ではあろう。だが、それを、わざわざこんな形で示してもらわなくてもいい。

 こういう小説を読んでいると、ただ読者を混乱させて、難解で高尚だと思わせてやろうという意図があるように思えて不愉快な気分になる。

 この小説の場合、途中から話が込み入ってきて、終盤になるとほとんど意味がわからなくなる。自分は、終盤、これを読んでいるのがだんだんばからしくなってきた。
 これが整合性を持った一貫性のある話なのかどうか、もはやわからない。
 計算し尽くされて文章が構成されているのか、安部公房はただ支離滅裂に文章を書いているだけで、「本当は支離滅裂に書いているのに、バカな読者どもが、この文章を勝手に深読みして、いろいろと解釈して、これは高尚だと思うに違いない。浅はかなやつらだ。へっへっへっ。」と思っているのかもよくわからない。

 いずれにしても、読む方は、もし、文章が実際には支離滅裂であった場合、その程度のまやかしはちゃんと見破って、ちゃんと批判した方がいいだろう。

 本当に本質的な問題を提起できる作家というのは、わざと読者を混乱させるような卑怯な方法は使わず、もっとストレートに内容で勝負できるはずである。


○ デカルトを勉強せよ

 そして、この記述者の問題に加えて、この小説のもう一つの特徴を評価する論評がある。それは、この小説が、虚構と現実の中を行ったりきたりするような点がおもしろいと評価するものである。「箱男(1)」でも述べたが、この物語の登場人物たちは、実は壁男の壁の落書きであったといったようなことになる。さらに後では、それさえもよくわからなくなる。そうした、この小説において何が現実だかわからない、というような部分を大いに評価する論評があるのである。
 そして、このような論評の中では、さもそれが、この小説が提示している斬新な視点であるかのように論評されている。だが、「箱男(1)」でも書いたが、自分には、それは評価すべき点どころか、きわめてばかばかしい点に思える。
 それは誰かの夢でした...、的な展開を評価する人たちには、これがよほど斬新でおもしろい展開だと写るのだろうか。ある物語が誰かの空想であったり、脳に与えられた電気的刺激が作り出したものであったというようなことが、そんなにおもしろいのだろうか。

 こんなことは、すでに、360年以上も前に、デカルトが、はっきりと言葉にしている。

 「我思う、故に我あり。」

 これくらいのことは高校程度で学習するだろうと思うが、この意味は、簡単に説明すれば、だいたい以下のような感じである。私が見たり経験したりしていると思っているこの世界の全ては、どんどん疑っていけば、もしかしたら、私の頭の中の空想なのかもしれない。しかし、どんなに疑ったとしても、どうしても、否定することができない真実が一つだけある。それは、そうやって疑っている自分というものが存在しているということである。もちろん、そういう自分を構成している体などは全て幻覚かもしれないが、疑っている自分自身の精神の存在は否定できない、というわけである。

 これは、論理的に徹底的に真実を追求した結果得られた、すばらしい洞察だと自分は思う。そして、この洞察の前には、それの焼き直しにしかすぎない多くの言葉やアイデアはほとんど陳腐なものに感じてしまう。そして多くの場合、それらは、デカルトの境地には達しておらず、もっと浅はかなものであることが多いのである。この小説のどんでん返し的な展開も、自分にはそうしたものにしか思えない。

 だから、こんな点を評価したりすることは自分にはできない。

 読者を無意味に混乱させたり、使い古された手法でどんでん返しをするのではなく、もっと、内容における高度な部分で驚かせてほしかった。


○ 期待

 文章を読む限り、安部公房は、なかなか頭のいい人物に思える。自分は、安部公房の他の小説は読んでいないが、他の作品はもっとおもしろいのかもしれない。まだ期待は持ちながら、別の作品を読んでみたい。読んだら、また論評したいと思う。

(完)

光太
公開 2012年6月17日

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