「はやぶさ 遙かなる帰還」 瀧本智行 (監督) 2012年
評価: 70点
この映画は、はやぶさ映画3作のうちの第2作目である。
自分は、はやぶさが地球に帰ってきたニュースや、インターネットで見つけたはやぶさ関係のいろいろな動画やイラストには、本当に感動していたので、かなり期待してこの映画を観に行った。
この映画の俳優陣は、渡辺謙、江口洋介、夏川結衣、吉岡秀隆、山崎努など、かなり有力なメンバーが揃えられている。
そして、セットもきちんと作られているし、使われているいろいろな映像なども質は高いと思う。
また、はやぶさやについて、科学的に正確に描こうとしているところも伝わってくる。その努力は買いたい。
だが、この映画は、非常に残念ながら、あまりにも淡々とし過ぎているのだ。端的に言えば、ストーリーを盛り上げようとしていないため、映画がほとんど盛り上がっていない。
自分は、はやぶさのことを既に少しは知っているし、もともと科学技術や宇宙にも興味があるので、この展開でもそれなりにおもしろかった。だが、これでは、普通の人には、かなり退屈なのではないだろうか。退屈までいかなくても、宇宙などに興味を持っていない人にも、本来は超感動的な物語になるはずのはさぶさの話が、ふーん、といった程度の感想しか与えないような作りになっている。
自分は、この映画を観てよかったとはそれなりに思ったが、期待していたものとは全く違っていた。感動したいところであまり感動できなかった。泣いたことは泣いたが、こうすればもっと感動的になるのに...、と何度も思わずにはいられなかった。
では、そうした部分について具体的に述べていこう。
○ もっと感動できたはずのシーンの数々
そもそも、はやぶさの打ち上げが成功したときの、研究者たちの喜びも、あまり表現されていない。
ロケットの打ち上げは、ある程度のリスクがあり、失敗の可能性も低くはない。もし、失敗すれば、何年もかけて準備してきたはやぶさが一瞬にして焼失する。そうなると、20年もかけて計画・準備してきた研究が、全く不可能になってしまう。こうした探査機には莫大な費用が投入されており、失敗したら、同じものを作るお金はない場合も多い。仮にお金があっても、同じものをもう一度作るには年単位の年月がかかり、現実的ではない場合が多い。実際に、最近でも、打ち上げに失敗してしまった例はある。2008年に、NASAは、二酸化炭素を観測する人工衛星を載せたロケットを発射したが、失敗してしまった。それを使って研究を行っていく予定だった研究者たちは、失意のどん底に突き落とされた。
だから、はやぶさのときも、研究者たちは祈るような気持ちだったはずである。打ち上げのシーンの前に、打ち上げが失敗した例をいろいろ紹介したり、その失敗の可能性に対する研究者たちの不安を描いたりして、もっと手に汗握る展開にできただろうと思う。そうすれば、無事打ち上げられたときの感慨ははるかに大きくなっただろう。
また、はやぶさは、途中、何度も危機に陥る。この数々の危機を、スタッフたちがそのたびに何とか解決して、はやぶさの帰還にこぎ着けたところが、このスタッフたちの偉大な業績であり、はやぶさの物語のかなり重要なポイントである。ところが、この映画では、そもそも、はやぶさに問題が発生したときのそうした危機感がほとんど伝わってこないのである。あまりに淡々としている。音楽も、もっと効果的に、危機に陥ったならそれらしい音楽にすればいいのに、そうした音楽を使っていない。音楽がほとんどなかったりする。そして、それらの危機を乗り越えたときの研究者・技術者たちの喜びも、あまり表現されていないので、感動もほとんどない。危機を乗り越えたときには気分が高揚する音楽を期待するのだが、それもない。映画を観て感動するには、音楽は一般に非常に重要な役割を果たすが、それがほとんどないのは致命的である。(ホラー映画を、音を消して見てみよ。ゲームのエンディングで音を消してみよ。効果音や音楽がどれくらい重要なことかすぐわかるはずである。)
科学者、技術者たちは概して冷静なので、現実はこんな感じだったのかもしれない。そして、現実社会において何かが起こったとき、どこからともなく効果的なBGMが流れてくるわけでもない。だから、これは現実的と言えば現実的な描き方だろうとは思う。だが、はやぶさが数々の困難を乗り越えたことのすごさを表現するには、わかりやすさのためにもそれくらいの演出はすべきであろう。
終盤、はやぶさが、地球に帰ってきて燃え尽きようとする前、はやぶさは地球を撮った写真を送ってくる。これは一つのクライマックスであるはずのシーンである。自分は、インターネットでこの写真を見たとき、そして、このエピソードを題材にはやぶさを擬人化したイラストを見たとき、本当に感動して涙が出た。ところが、この感動的なエピソードが、あまりにもそっけないのである。プロジェクトマネージャーの山口が、はやぶさが撮ったという何枚かの写真を受け取り、何も写っていない写真を何枚かめくったあとで、はやぶさが地球を撮った写真が現れるのであるが、ここでも感慨も感動もない感じなのである。写真が大写しになるわけでもしばらくの間じっくりと撮されるわけでもない。もしかしたら、実際もこんな感じだったのかもしれない。だが、この感動的なエピソードをこんなふうに無駄に使ってしまっては本当にもったいない。なにしろ、はやぶさが数々の危機を乗り越えて、7年の歳月をかけて奇跡的にはるばる地球に帰ってきて、自らが消滅する前に撮った地球の写真なのである。こんな感動的なはずのシーンが、まるで、数通のダイレクトメールを受け取った中から、電気料金の支払い通知を見つけた程度の反応では全くもったいないことこの上ない。
この映画の、はやぶさが燃え尽きるシーンは、さすがに自分は泣いた。このシーンでは、実際にはやぶさが大気圏に突入して、オーストラリアのウーメラ砂漠で撮影された映像が使われていた。はやぶさが一筋の光となって明るく輝き、次第にばらばらになって燃え尽きるあの映像である。そして、はやぶさが炎に包まれて燃え、溶けていくCGの映像はすごかった。
だが、このシーンは音がないので、映画館で観ていて、他の人たちのかすかな物音も聞こえるのだが、他の人たちが泣いている様子はほとんどなかった。100人中、2,3人の動きが感じられたので、その人たちは泣いたかもしれないが、この感動的なシーンにしては反応がほとんどなかった感じだった。
このクライマックスのシーンは、盛り上げようと思えば、いくらでも盛り上げられたはずである。
例えば、はやぶさが帰ってくる前の日から、本当に帰還が成功するかどうか心配する街の人々の声、そのままで帰ってきてほしいのに燃えちゃうのか、燃えないで地上まで帰ってこれないのか、と泣きそうになりながら大人に聞く子どもたちの声、自分を焼失させながらカプセルを地球に返す自己犠牲的な姿に思いを寄せる人々からきた手紙の数々...。そうしたものを存分に紹介し、その後でこの炎に包まれるシーンを流せば、どんなに感動的になったかわからない。
そして、はやぶさが、カプセルを地球に届けるためにカプセルを放出して自分は燃え尽きるという自己犠牲的なところをもっと直接的に説明すれば、どれほど感動的になったかわからない。
はやぶさが地球に帰ってきた後も、映画では、研究者たちがそういう感慨を語ることもほとんどない。ここでも、研究者たちが、はやぶさのすごさと、はやぶさへの愛着を思う存分に語り、それに重ねて、はやぶさの大気圏突入のシーンを何度も何度も流せばよかったと思う。はやぶさ帰還のニュースを聞いた街の人々の喜びや感動、盛り上がっている様子も見せながらはやぶさの焼失していくシーンを何回も流せばよかったと思う。そうすれば、観ている人は、涙せずにはいられなかったであろう。
...といったように、少しのことで感動の渦を巻き起こせるのに、全くそういう意図がないのがこの映画の特徴であった。
自分は本当に残念だと思った。
光太
公開 2012年3月4日