臓器移植


 2012年6月14日、15日に、日本初の6歳以下の子どもからの臓器移植が行われた。

 心臓、肝臓、腎臓、そしてその後には角膜が、臓器提供を待つ患者たちに移植された。心臓、肝臓については、それぞれ10歳以下の2人の女の子に移植された。

 自分は、このニュースにとても感動した。

 脳死になった我が子の臓器の移植を決意したこのご両親に、心からの敬意を表したい。また、臓器移植を成功させた医療関係者をはじめとする関係者の方々の成しえた仕事を、心から讃えたい。

 このニュースを聞いて、自分は本当にうれしかった。

 移植を受けた人たちには、これから、本当に元気に生きていってほしいと願わずにはいられない。


 さて、この文章においては、今回のニュースを機に、臓器移植について抜本的な観点から論じてみたい。

 自分は、臓器移植に大いに賛成である。

 ここでは、その中でも、特に子供の臓器移植を考えてみるよう。

○ 悲しい現状

 臓器に問題を抱えたたくさんの子どもたちが、臓器提供を待っているが、その子どもたちが臓器の提供を受けられず、亡くなっていっている。国内で臓器提供を受けられないために、一部の子どもは、海外に渡ってその手術を受けている。だが、海外での臓器移植は、もちろん保険もきかず、超高額な費用がかかるため、それが可能なのは、ごく一部のケースに限られる。心臓移植に関しては、日本で移植を待っていても移植は受けられず、1割の子どもは海外で移植を受けており、9割の子どもは、臓器の提供者が現れるのを待ちながら亡くなっているという現状ということである。なんと理不尽なことだろうか。移植できる臓器さえあれば生きられたのに...。

 また、海外で移植を受けたケースについても、それでいいということにはならない。臓器を海外に依存しているということは、日本人は臓器を提供することなしに、海外の人の臓器をお金で買っている、といった心証を与えたり、実際にそれに対する批判の声もあがっている。

 誤解を与えるといけないので、(本当は言うまでもないことだが、)念のため書いておくが、これについては、海外で移植を受けている側が何か後ろめたさを覚えるような必要は全くない。本当に全くない。
 子どもの臓器を提供するような環境を整えていない日本の社会に問題があるのだ。
 海外で臓器提供を受け、生きる機会を得ることができた子どもたちは、そんなことは全く考えず、元気に堂々と生きてほしいし、そのご両親たちも、そういうことは少したりとも考える必要はない。
 これは、言うまでもないが、当然のことである。

 さて、話を戻すが、以上のような現状であるため、日本でも、もちろん、子どもの臓器提供がもっともっと行われるようにしなければならない。そして、臓器を待っている子どもたちが、それを待ちながら亡くなっていくなどということは、できうる限りないようにしなければならない。

 そうした中、今回のご両親は、自分たちの方から、臓器提供を申し出たということである。

 小さな我が子が脳死状態になった親の悲しみは想像にあまりある。そして、そういう状況では、普通は医者の方から、臓器提供を提案することも難しいということである。親は、子どもが脳死状態になって、ただでさえ大きなショックを受けてそれを受け入れられないような心理状態にある。その上、子供の体から臓器を取り出すことに対する心理的抵抗感も大きいだろから、それは当然のことだろう。

 にも関わらず、このご両親は自ら臓器提供を申し出てくれ、その親族の方々はそれに同意してくれたのである。

 そして、この尊敬すべき決断により、他の命が救われた。本当に感動的である。


○ ご両親のコメント

 このご両親が、子どもの臓器を提供する際に発表したコメントを以下に引用する。

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 息子は、私たち家族が精いっぱい愛情を注いで育ててきました。

 元気な息子のわんぱくにふり回されながらも、楽しい時間を家族みんなで過ごしてきました。

 本日、息子は私たちのもとから遠くへ飛び立って行きました。

 このことは私たちにとって大変悲しいことではありますが、大きな希望を残してくれました。

 息子が誰かのからだの一部となって、長く生きてくれるのではないかと。

 そして、このようなことを成しとげる息子を誇りに思っています。

 私たちのとった行動が皆様に正しく理解され、息子のことを長く記憶にとどめていただけるなら幸いです。

 そして、どうか皆様、私たち家族が普段通りの生活を送れるよう、そっと見守っていただきたくお願い申し上げます。
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 本当に頭が下がる。

 このすばらしいメッセージが、日本の多くの人たちの心を動かし、今後、日本に子どもの臓器移植が進む大きな第一歩となれば、と思わずにはいられない。

 もちろん、こうしたことは強制されるべきことではないし、個々の家族の思いは第一に大切にされるべきである。

 提供しない場合があるからといって、その家族が批判にさらされるような社会にしてはいけない。

 だが、やはり、臓器の提供を待ちながら、その提供者が現れずに亡くなっていく子どもたちがたくさんいるのは本当に忍びない。

 だから、ここでは、一歩進んで論じたい。
 こういうことは、慎重に、感情に配慮しながら、ということはそうかもしれないが、ことは子どもの命に関わることでもあるので、敢えて、もう少し根本的に考えてみたい。


○ 心理的抵抗をどうするか?

 脳死の子どもからの臓器移植を複雑なものにしている点の一つが、子どもの脳死判定は、大人よりも難しいという点である。だが、それは、高度な専門知識が必要な問題であるので、それについては専門家の方々に、信頼性の高い方法の検討・研究をこれからもお願いしたいと思う。

 ここで問題にしたいのは、脳死の人の体から臓器を取り出すことに対する心理的抵抗の問題である。

 言うまでもないことだが、脳死の人の体から臓器を取り出すことは、多くの人にとっては心理的抵抗がある。子どもの脳死の場合はなおさらだろう。だが、その抵抗感を持ち続けるがばかりに、多くの子どもの命をみすみす犠牲にしていいのだろうか。

 そんな抵抗感さえなければ、多くの臓器を待っている子どもの命が助かるのである。

 そうした抵抗感を早くなくすよう、社会がもっともっと努力し、変わっていくべきではないだろうか。

 生命倫理の立場から、臓器提供は慎重に、という意見があったり、こうした抵抗感を文化的にも大事なものととらえる考え方もあろう。しかし、この問題は、臓器提供を待っている子どもたちの命に関わる問題なのである。この子どもたちは、無惨に亡くなっていくのである。その痛みと苦しみを最優先に考えるべきではないのだろうか。

 今回の臓器提供において、ご両親はメッセージで、「息子が誰かのからだの一部となって、長く生きてくれるのではないかと。」と言われている。
 一般に、脳死状態にあっても、その子どもの体を傷つけたくない、という思いが、臓器提供を躊躇させるかなり大きな要因であろう。だが、臓器提供をしなければ、その子どもは普通に亡くなってしまい、遺体は焼かれて、骨だけになってしまい、その子どもの生命活動は完全に停止してしまう。
 だが、臓器提供をすれば、このご両親が言われていたように、その子どもの一部が、他の子ども(や大人)の一部となって、生命活動を続けられるのである。

 社会全体がそういうふうに考えられるようになっていけばと思う。

 そもそも、体を傷つけて臓器を取り出すのが嫌だ、といった感情は、完全に文化的なものであると思う。

 例えば、人が亡くなった後、日本や多くの国々では、遺体を焼く。日本人はそれを何とも思っていない。しかし、これは、考えようによっては、非常に残酷かもしれない。遺体を灼熱の炎で焼いてしまうのである。でも、それを残酷と思わないのは、単にそれが普通のことだと思っている、という文化的なものである。
 また、例えば、左手を不浄とする文化圏がある。その文化圏では、左手で触られたりしたら、ものすごい嫌悪感を感じたりするのだろう。しかし、左手が本質的に不浄であるなどということはありえない。だが、もし、そう思うことが一切無害なら、別に不浄だと思おうが思うまいが関係ない。でも、仮に、そう思うことで、多くの子どもたちの命が失われるとしたらどうだろうか?そんな不合理で因習的な意識は当然捨てた方がいいということになるだろう。

 こうした感情は、完全に文化的背景によるものだから、いくらでも変えられるのである。
 まずは、こうした感覚が文化的なものであり、絶対的なものではないのだという理解を共有することから始めたい。それから、そうであるならば、脳死の人の体から臓器を取り出す行為も、全く抵抗のあるものではないという意識を共有するように変わっていきたい。
 脳死の人の体を、死後に完全に焼いてしまうことは、臓器を取り出し、一部であっても、他の人の体の中で生命活動を続けられることに比べて、はるかに残酷なことであるとも言えるだろう。

○ 最後に

 世の中には、解決の難しい問題はたくさんある。治療が非常に難しい難病や、事故で重体になり、手術をしても、命を救えないようなケースもたくさんある。
 でも、今の場合、話は簡単である。人々がこれまでのとらえ方を変えるだけで、多くの子どもの命が助かるのである。
 社会が意識を変えて、臓器提供をする人が増え、一人でも多くの、臓器を待っている子どもたちが助かる社会にしたい。

 最後に、もう一度、今回の件では、臓器提供を自ら申し出たご両親のご意志に本当に敬意を表し、それを成功させた医師たちや関係者の努力も讃えたい。

 ご両親を始め、こうした全ての人々の力によって、二人の子どもの命が救われ、生き続けることができるようになったのである。

 臓器提供者が現れるのを待ちながら亡くなっていく子どもたちや、残された両親や家族が悲嘆にくれるケースを少しでも減らすよう、そして、命を救われる子どもが今後どんどん増えるよう、脳死の人の体や遺体に関する感じ方を、大きく変えるべき時にきていると思う。

(完)

光太
公開 2012年9月1日

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光太の映画批評・ドラマ評・書評・社会評論