スーパークールビズ


 2011年、東日本大震災による電力不足の影響から、環境省が、スーパークールビズを始めた。ポロシャツ、アロハシャツ、ジーンズなどで勤務してもよいという。

 これは、非常に歓迎されるべきすばらしい提案である。環境省のみならず、全ての省庁及び、県や市町村の役所でも徹底的に完全実施をすべきである。また、民間企業にも、強力に広めるべき、重要な提案である。
 こういう提案は、国民・マスコミあげて応援したい。

 環境省は、各企業が夏の間、従業員に無用な厚着をさせ、エネルギーの大いなる浪費を助長し、ひいては地球の温暖化をどんどん進めていないかを、徹底的にチェックするシステムを導入してもいいくらいの話である。労働基準監督局のごとく、これをしっかりと管理・監督する仕組みを作って、各企業に査察に入り、取り組んでいない企業の名前を公表するくらいの姿勢で取り組んでもよいくらいである。

 日本の蒸し暑い夏の、職場におけるこうした服装は、むしろもっと昔から導入されているべきであり、今からというのは非常に遅すぎたとは思う。しかし、過ちは、即座にきっぱりと改めることが大切である。とにかく今からでも、こんなにすばらしい政策は、できる限り早急に実施した方がよい。

 そもそも、日本の、湿度が非常に高く高温の夏にスーツなどを着ているのは全く馬鹿げている。これは、冷涼地用の服装である。

 最近こそ、夏の間はネクタイはしない人が増えているが、ネクタイの起源の一説には、寒いときに首のところから冷たい空気が入ってこないようにするためというものもあるくらいで、蒸し蒸しとした日本の夏にするべき服装では全くない。夏に、蒸し暑い空気を服の内側に大切に閉じこめて、なにがうれしいのであろうか。

 日本の夏は、ほとんど亜熱帯と同じ気候である。亜熱帯なら、当然亜熱帯にふさわしい服装をすればよいのである。こんなに当たり前のことをわざわざもっともらしく記述するのもバカバカしく、恥ずかしくなる。

 日本人は、欧米から正装を学んだ。それが礼儀正しい節度を持った服装だとしてそのまま使っている。だが、気候の全く違う場所で同じものを使うなどという馬鹿げたことはないし、これほど馬鹿げたことも珍しい。アラスカのイヌイットの厚い毛皮の服と帽子を、ケニヤでありがたく導入して、ひどく暑がりながら、サバンナで着るのと大差ない。賢明な民族は、そんなことはしないものである。

 国民も国民である。こんな服装を、暑さを我慢して粛々と着用していることは、本当に不可思議と言うしかない。こんなにばかばかしいことに対して、よく暴動が起らないと感心する。
 社会から、毎日、おかしな踊りを踊らねばならないと強制されて、それに粛々と従って毎日踊っているのと同じである。いや、それよりはるかに悪い。おかしな踊りを踊らされても、別にそれほどの害はないが、蒸し暑い中スーツを着るのは、はるかに大きな苦痛があるからである。

 そして、夏にスーツを着ていると暑いからと、電車やオフィスなどの冷房を強くし、その冷房で体を壊す人までいる。
 ここまでくるとあきれてものが言えないが、しかたないのでまじめに論じよう。

 こうした強い冷房は、2つの悪循環をもたらす。一つは、ヒートアイランド現象である。冷房は、膨大な電力を消費し、消費されたその電力は、熱としてエアコンの室外機から屋外に放出される。これは、つまり、夏の猛烈に暑いときに、外でたき火をしているようなものである。夏の日本というのは、ほぼ全ての家々が一軒一軒屋外でたき火をし、電車やオフィスでは、かなり大がかりに、キャンプファイヤーのごとくに屋外で火を燃やしているのと同じである。日本の夏の電力の半分近くは冷房に使われているから、これはつまり、石炭や液化天然ガスや石油などを夏に屋外でどんどん燃やしているのと同じなのである。これにより、当然、都市部の温度は高くなる。温度が高くなれば暑いから、さらにエアコンを強くする。
 そして、もう一つの悪循環は、地球温暖化である。上のヒートアイランド現象と混同する人もいるかもしれないが、ヒートアイランド現象は人々の密集した都市に集中的に影響するものだが、地球温暖化は地域局在的ではなく、地球規模で全体的に温度が上昇する。エアコンを使うことで、地球上に二酸化炭素は増え、地球温暖化により、地球全体の温度が高くなるから、当然日本の夏も暑くなり、より冷房を強くしなければならない。

 これほど馬鹿げたことがあるだろうか。

 だが、次のような反論をする人がいるかもしれない。
「そうは言っても、夏でも正装が必要なこともある。服装を軽装にと言っても、商談やビジネス、公の場などでは、フォーマルな服装が必要なのだから、しょうがないではないか。」

 しかし、ちょっと待ってほしい。
 こんなことを堂々と言えるのは相当頭がかたい証拠である。
 こんな浅はかなことを恥ずかしげもなくよくも言えるものだと、天地がひっくり返るほどの驚きである。こんなことを言うのは、「どうだ!私の頭の固さを見よ!私は堅物で、常識に凝り固まっているのだ!」と宣言しているようなものである。

 正装というのは、神が決めたものでも、自然の原理によって必然的に決まっているものでも何でもなく、共同体が勝手に決めればよいものなのである。
 フォーマルな服装など、そもそも何でもよいし、極端に言えば、共同体が、水着をフォーマルだと決めれば、水着がフォーマルになるのである。

 フォーマルな服装はスーツだから、それはしかたない、などとするのは、現在の文化にとらわれた、よほど発想力のない、膠着的な考え方であろう。

 社会を考えるときには、もっと根本的なところから問い直して、もっともっと柔軟な発想で考えていこう。

 今後は、夏に、スーツなどを着たり、長袖を着たりするのは、非礼きわまりないと認識される文化にしていくべきである。夏にスーツなどを着る人は、葬式にピエロの出で立ちで参列する人と同じような目で見ることにしよう。
 そして、夏の間は、アロハシャツやハーフパンツ、素足にサンダルを、働く人たちの基本的かつ礼儀正しい服装としていこう。これをフォーマルとしていこう。

 これにより、日本の夏は、だいぶ快適なものになるはずである。そして、日本社会が、だいぶ素敵で住みやすい社会になるのではないか。
 我々が住む社会は、我々が住みよい社会にどんどんしていけばよいのである。

(完)

光太
公開 2011年6月26日

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