破戒


「破戒」   島崎 藤村 (著) (中公新書) 1906年

評価: 67点


 この小説は、過去に日本において存在していた激しい部落差別を極めて生き生きとした形で読者に提示している。当時行われていたこうした差別に深い憤りを感じずにこの小説を読むことはできないと思う。

 現在、我々の多くは、被差別部落の歴史や実体をよく知らないままでいる。中学生の頃、江戸時代の士農工商の身分制度について学校で教えてもらったとき、その下に、差別されている階級が存在していたことに学校の教師は言及していたが、その詳しい実態は、特に習うこともなく、よく知らなかった。そして、「朝まで生テレビ」で昔、被差別部落問題を扱った回があったが、自分はそれを見るまで、こうした問題が今もなお存在しているのだということも全然知らなかった。西日本では、こうした被差別部落がある程度身近なのかもしれないが、東日本では(自分を含め)その問題が現在存在していることも知らなかった人は多いのではないだろうか。

 この小説を読んで、少なくとも過去にこのようなひどい差別があったことを我々はきちんと知っておくことは重要なことだと思った。

 ただ、この小説を読んで、自分には、釈然としない後味が残った。

 主人公は、終盤、部落の出身であることを告白するとき、教え子の生徒たちに向かって土下座して謝る。そして、最後は、新しい生活を始めるため、テキサスに旅立つ。

 だが、被差別部落の出身であることを隠していたことは、何ら謝ることでないはずである。それを明らかにすれば理不尽で壮絶な差別の対象となったから隠していたのである。間違っているのは、差別を恐れて身分を隠していた者の方ではなく、差別する社会の方であることは明らかだろう。

 もし、終盤のこの告白の場面において、謝るのではなく、被差別部落の出身であろうと、人を生まれながらに差別することがおかしいということを主人公が毅然として社会に対して堂々と訴え、最後、日本社会の中で理不尽な差別と闘っていくという内容であれば、その結果がどうであれすっきりとした読後感だったと思う。でも、この小説の主人公は、闘うことではなくそっと身を引くことを選んだ。

 作者の島崎藤村が、この小説において、被差別部落という問題を、人間心理描写の単なる背景として使っただけなのか、当時の時代背景を考えれば、これくらいの内容でも、差別に対する画期的な告発であったのか、もしくは、真正面から抵抗することすら不可能なことを描くことで、かえってこの問題の根深さを表現しているのか、自分にはよくわからない。

 いずれにしても、こうした残酷な時代と歴史があったことを知らない人には、読む価値は十分にあると思う。

(完)

光太
公開 2011年5月2日

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